日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

西日本工業倶楽部(旧松本家住宅)


本州から九州に渡ってすぐの北九州市に、洋館と和館を併設した大規模邸宅があります。


この邸宅は現在、『西日本工業倶楽部』の倶楽部会館として利用されていますが、もともとは松本健次郎という人物の邸宅として建築されました。

 

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西日本工業倶楽部(旧松本家住宅)


そしてこの邸宅は、東京駅や日本銀行本店など、堅牢で重厚な国家的建築物の設計で知られる辰野金吾が挑んだ、日本を代表するアール・ヌーヴォーの館です。

 

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辰野金吾


今も洋館と和館がそろって残り、庭園を含めて敷地全体が当時の雰囲気をよく伝えています。


日本近代の大規模邸宅は洋館と和館がセットになっているのが標準型ですが、その両者がそろって残る形は意外と少ないです。


そんな中で、旧松本家住宅には、和館、洋館のみならず、附属屋、さらに庭園を含む敷地全体がよく伝えられていて、貴重な事例と言えるでしょう。


この住宅の施主は上述したように、松本健次郎という人物です。

 

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松本健次郎、安川敬一郎


健次郎は1870(明治3)年に福岡で生まれました。


1891(明治24)年にはアメリカのペンシルバニア大学に留学し、1893(明治26)年に帰国した後は父である安川敬一郎とともに安川松本商店を設立しました。

 

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ペンシルバニア大学


父子で苗字が違うのは下記の理由があります。


安川敬一郎は、黒田藩士徳永貞七の四男として、福岡鳥飼村に生まれました。


長兄の織人が徳永家を継ぎ、次男の潜は松本家、三男の徳は磯島家、そして敬一郎は安川家の養子となりました。


その後、敬一郎の長男は安川家を継ぎ、次男の健次郎は松本潜の養子として松本家を継いでいます。


そのため、親子であっても苗字が違うということになっています。


明治、大正期には姓を途絶えさせないために、このような養子政策が頻繁に行われていました。


また、松本潜の祖父・松本平内が幕末に、福岡藩の石炭専売の「仕組法」を献策し、芦屋会所で任にあたっていたこともあり、潜と徳の兄弟は、明治の家禄制の廃止に際して稼業として炭鉱業を始めています。


徳が佐賀の乱で1874(明治7)年に戦死すると、慶応大学で学んでいた敬一郎は学問の道を諦め、炭鉱業を継いでいます。


このようなことから、敬一郎は自分が諦めてしまった学問の道を息子に託し、米国留学をさせたのかもしれません。

 

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佐賀の乱


さらに、松本潜・安川敬一郎兄弟は、採炭業のみならず石炭販売の営みを重視し、その住居は販売店に接して移動しています。


1877(明治10)年に遠賀川河口の芦屋に初めて石炭販売の安川商店を開業すると、鞍手郡長谷から芦屋に転居しました。


そして、1890(明治23)年に若松築港会社が創立され、1891(明治24)年に鉄道が開通して筑豊炭の積出港が芦屋から若松に移るのを見越して、1886(明治19)年に本店、1889(明治22)年に住居を若松船頭町に転じています。


その後、上述したように安川敬一郎は息子の松本健次郎と共に、安川松本商店を設立しています。


日露戦争後、安川敬一郎・松本健次郎父子は技術者養成のための専門学校を創立するため、桜の名所安部山を含む一帯の林野・原野65万平方メートルを買収しました。


そして、この用地の南丘陵地の木立の中に邸宅を設けました。


この建物が、旧松本家住宅(現在の『西日本工業倶楽部』)です。


また、安川敬一郎・松本健次郎父子は、九州のみならず中央財界にもおいても権力を持っていました。


そのため、自宅の北側に建てられた専門学校(旧明治専門学校、現・九州工業大学)の迎賓館として利用することも意図して、自宅を設計をさせました。

 

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九州工業大学(旧明治専門学校)


これらのことから、この建物では、内向きと外向きの空間という住宅のもつ二面性のうち、外向きの空間がより顕著な特徴を見せています。


建物の敷地はJR戸畑駅の南東のゆるやかな丘陵の上にあります。


南北に長い敷地の中で建物群は北寄りにあって、東側に面した正門から入ると、正面に洋館、その右に和館が建っています。

 

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洋館

 

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和館


建物は1909(明治42)年に和館、1911(明治44)年に洋館の順で建てられました。


両者は東西2本の渡り廊下で結ばれていて、和館の裏手には2つの土蔵があります。


建設当時はさらに裏手にあたる西側にボイラー室、傭人住宅、倉庫などがありましたが、現在では失われています。


正門から入ると、ロータリーをはさんで洋館の東側にたどり着きます。


洋館はこの東側と、庭園に面した南側の2面を主たるファサードとするように設計されています。

 

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洋館 南側


東側の玄関は南東隅突出部の北面に設けられているため、建物に向かって左に折れて入る形になります。

 

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洋館 玄関


玄関を入って、右に折れると大ホールに出ます。


アール・ヌーヴォーの装飾要素をふんだんに配した大ホールの南側はベランダを介して庭園側に開かれ、北側には階段が設けられています。

 

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洋館 階段


ベランダの床面には、周囲に白色の鎖つなぎと、緑と白色の三角タイルを組み合わせた模様を巡らせています。


中敷きは黄色の八角タイルの隙間に小ぶりな茶色のタイルを組み合わせています。


このタイルはイングランド中部のストーク・オン・トレント市のミントン・ホリンズという会社が制作したものであることがわかっています。


同市は高級食器のウェッジウッドなどの本社所在地として知られる陶業の街です。


これらのことから、このベランダもかなりの見どころと言えます。

 

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洋館 ベランダ


大ホールの東側には書斎(現・第一会議室)、子供室(現・第二会議室)、応接室があります。


西側は広い廊下を介して居間(現・第三会議室)、食堂へとつながります。


書斎は洋館内部のハイライトの1つで、アールヌーヴォーの特徴を最もよく表す曲線状の装飾がふんだんに使われています。

 

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洋館 書斎


2階は東寄りを寝室(現・第五~七会議室)とし、南側に談話室とサンルーム、その西に客用寝室(現・第八会議室)を配しています。


南西隅は床棚を備えた座敷とし、南側には広縁を取っています。


アールヌーヴォーを基調とした洋館の内装は、その様式以外にも随所に遊びが取り入れられています。


例えば、2階南西隅の部屋は、上述したように座敷の和室ですが、北面には暖炉が設置されています。


しかし、同時に左右には襖絵を置き、上部に物入れを配して、和風の棚のようにまとめています。

 

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洋館 和室


大ホールに戻ると、最も眼を引くのは、大胆な円形を用いた暖炉であろうと思います。


天井は東西方向に大梁を架けて板張りとし、床は周囲に縁取りをしたバケットフロア(寄木張りの床)になっています。

 

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洋館 大ホール暖炉


書斎と並ぶ洋館のもう一つのハイライトは1階南西隅の食堂で、北面中央に暖炉を、西面の壁に食器棚を設けています。


各扉の上には雲形の額に和田三造の洋画を配していて、ほかでは見られない特徴ある室内空間となっています。


特に食器棚の上にかかる緩やかなアーチ状の装飾が印象的で、アールヌーヴォーの自由で有機的なデザインの特徴がよく現れています。

 

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洋館 食堂


洋館の南側の外観は、1階部分は水平目地を入れて石造りを模し、2階部分はハーフティンバーでまとめています。


中央の軒のラインを曲線状に持ち上げている箇所や、屋根上のドーマー窓、白い壁面と木骨によるハーフティンバー風の2階壁面が相まって、とても柔らかい表現を創り出しています。

 

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洋館 南側外観


この洋館部分は辰野金吾の設計で、彼の作品の中では異色の存在であるとも言えます。


東京駅や福岡市赤煉瓦文化館のような、いわゆる辰野式とはかけ離れているばかりか、アールヌーヴォーを取り入れ、曲線を多用するデザインは日本の住宅史の中でも珍しいものです。


和洋の折衷された和室部分を除けば、この洋館からは微塵も和風の香りはしないのですが、設計寸法は日本の伝統的な尺寸を基本としています。


このように和風の香りが隠された洋館となっているようです。


一方、和館は久保田小三郎の設計によるものです。


久保田は安川松本商店臨時建築部に在籍し、旧松本家住宅だけでなく、旧明治専門学校の校舎などの設計全般を担当していました。


和館は一部を除いて2階建てですが、当初は全て平屋建てでした。


後に健次郎の息子である幹一郎の婚礼に際して2階部分が増築されています。


この増築は全体として巧みに設計され、破綻なくまとまっていますが、構造的にはさすがに無理があったようで、近年の修理時にはその部分の傷みが散見されています。


和館の玄関は南側に面して設けられ、書院を介して右奥に床、書院、違棚を設けた13畳、次の間の10畳の大座敷があります。

 

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和館 内装


内庭に面する東・南面には入側と呼ばれる畳敷一間幅の廊下、さらにその外側に濡縁を巡らせています。

 

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和館 入側


玄関の間西側には洋館と結ぶ渡り廊下から続く廊下を介して座敷や浴室が設けられ、内向きの居住空間となっています。

 

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和館での会食時風景


旧松本家住宅は第二次世界大戦後は米軍に接収され、1951(昭和26)年まで将校宿舎として利用されていました。


その後、所有者から『西日本工業倶楽部』に譲渡され、今日に至っています。


この種の建物は、所有形態が変わると、建物のあり様にまで影響を及ぼすことが多いです。


このことも、明治大正期の大邸宅がそのまま残っているということが少ないと言える理由の一つです。


しかし、旧松本家住宅の場合は、もともと迎賓館として意識されたこともあり、良好な管理と相まって明治期の和館・洋館併設型邸宅の面影を今もよく残しています。


1972(昭和47)年には、洋館、和館ともに国の重要文化財に指定され、2007(平成19)年には近代化産業遺産にも指定されました。


『西日本工業倶楽部』では、年間を通じて結婚式や音楽会、パーティーなどを行っています。


また、夏季は夜にビアガーデンとしても開放されています。

 

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庭園 結婚式


いずれも予約や申し込みが必要ですが、明治の数少ないアールヌーヴォー式の邸宅での結婚式は、厳かで格調高く一生の思い出になると人気です。


さらに、春・秋にはそれぞれ1日だけ、完全一般開放をしています。


こちらも予約は必要ですが、この邸宅は見学する価値が十分あるので、ぜひ行ってみてください。


開放日の1か月半~2か月前ごろに、北九州市のホームページにて次回開放日がアナウンスされます。


様々なイベントが開催されていますので、気になる方はぜひ『西日本工業倶楽部』のホームページを閲覧してみてください。