小樽市を代表する観光地でもある小樽運河。
1923(大正12)年に完成し、小樽市の海運を支える需要な役割を担ってきました。
しかし、戦後港の埠頭が整備されると、その役割を終えました。
<小樽運河>
その小樽運河で、「小樽運河論争」を巻き起こす原因となった小樽運河の埋め立て工事は、1986(昭和61)年に完了しました。
小樽運河論争とは、1966(昭和41)年に都市計画決定された臨港線の開通に伴う、運河埋め立ての立案のことです。
工事によって、運河の南半分が6車線の道路と散策路として整備されました。
当初の予定では、南側に引き続き北側も埋め立て予定でした。
しかし、1973(昭和48)年に「運河を守る会」が発足され、学識者や住民を巻き込んで多彩な運動が展開されました。
函館と主催で1980(昭和55)年に行った「全国街並みゼミ」も、この運動の一環と言われています。
<小樽運河論争>
この保存運動は都市計画に若干反映され、小樽運河の南半分は幅が半分に埋め立てられましたが、北半分は埋め立てられず残されることになりました。
埋め立てされずに残った運河の北側に建っているのが、「旧日本郵船株式会社小樽支店」の社屋です。
<旧日本郵船株式会社小樽支店>
日本郵船株式会社は、1885(明治18)年9月29日に創立された船会社です。
こちらは三菱財閥(三菱グループ)の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業で、1893(明治26)年12月15日に株式会社となりました。
今もなお日本の3大海運会社の一つであり、非常に息の長い大企業です。
戦後の株式特定銘柄12社(平和不動産、東レ、旭化成工業、日本石油、住友電気工業、日本電気、松下電器産業、三菱重工業、トヨタ自動車、三井物産、東京海上火災保険、日本郵船)の1つでもあります。
英文表記「NIPPON YUSEN KAISHA」から「NYK LINE」とも記され、国際的には「NYK」として広く知れ渡っています。
国内・海外を合わせて350以上の都市の港へ、838隻の運航船舶が乗り入れており、運航船舶数規模及び連結売上高及び連結純利益で、日本では1位、世界でも最大手の海運会社の1つとなっています。
2006(平成18)年2月に、マースクライン社が世界第3位の業界シェアを占めるオランダの海運会社P&ONedlloyd 社と合併して世界最大手になったため、NYKは連結売上高で世界2位になっています。
国内以上に海外での知名度が高く、日本海運の代表と呼ばれています。
<マースクライン社の船>
そんな会社が明治末に支店の新社屋として建てたのが、「旧日本郵船株式会社小樽支店」です。
かつてはその前面には自社専用の船入間が運河から引き込まれ、積み荷を処理する艀(はしけ)が、木骨石造の倉庫や上屋が軒を並べる前面の水辺に浮かんでいました。
この社屋の設計者は、佐立七次郎という人物です。
<佐立七次郎>
佐立は1873(明治6)年に最年少の16歳で工学寮(のちの工部大学校)に入学、1879(明治12)年に工部大学校造家科第一期生として卒業しています。
同期には辰野金吾や片山東熊がいますが、彼らに比べ佐立はあまり知られていません。
<辰野金吾>
<片山東熊>
この理由として、生涯での建築実績が34棟と寡作だったこともありますが、彼が非常に控えめな性格であったことが最も大きな理由です。
彼が控えめな性格になってしまったのは、1891(明治24)年の濃尾地震で、自身の設計であった名古屋郵便局が大破したことが原因と言われています。
また、彼の主な作品は下記の通りです。
・会計検査院:1885(明治18)年東京都千代田区・・・現存せず
・名古屋郵便局:1890(明治23)年愛知県名古屋市・・・現存せず
・東京九段郵便局:1891(明治24)年東京都千代田区・・・現存せず
・日本水準原点標庫:1891(明治24)年東京都千代田区・・・現在も公的建造物としての機能を有する
・大阪中央郵便局:1892(明治25)年大阪市北区・・・現存せず
・東京株式取引所事務所立会所:1896(明治29)年東京都・・・現存せず
・旧日本郵船小樽支店:1906(明治39)年北海道小樽市・・・重要文化財
このように、主な作品があまり残っていないことも、彼があまり知られていない原因の1つでしょう。
一方で、明治・大正・昭和を通じて対欧州輸出港として栄え、小樽の全盛期を象徴した建物が、この記事で紹介している「旧日本郵船株式会社小樽支店」です。
それでは、この建物がどのような建物なのか解説していきます。
まず、この建物を訪れた多くの人が、「どこを見ればいいのかわからない」と疑問に思うようです。
それもそのはずで、広い営業室の片隅に船舶の模型と関連する資料がわずかに展示されている程度で、造船に興味がある人でないとよくわからないからです。
しかし逆に言えば、展示物などではなく、建物そのものをじっくり見ることができるということでもあります。
施工は地元の大工「山口岩吉」が請け負い、1904(明治37)年に着工し、1906(明治39)年10月に竣工しました。
日露戦争の真っただ中のことでした。
<日露戦争>
第一次世界大戦中は欧州全体が戦場となり、特に豆類を中心とする食糧不足に陥り、北海道十勝産の豆類が鉄道で小樽まで運ばれ、欧州へ輸出されていました。
十勝では「豆成金」が生まれ、小樽運河周辺に輸出用の豆類を保管・選別する石造の倉庫が相次いで建設されました。
<第一次世界大戦>
<山積みの豆類>
これらの中心となって輸出を牛耳ったのが、日本郵船の小樽支店です。
そんな建物の外観は、マンサード屋根が特徴的な第二帝政様式(フレンチ・ルネサンス)リバイバルです。
<外観>
第二帝政様式とは、ナポレオン3世統治下の1852(寛永5)年~1870(明治3)年にフランスで流行した建築様式です。
天然スレートを葦いたフランソワ・マンサールの発明によるマンサード屋根(腰折れ寄棟屋根)と強調した隅石を特徴とします。
20世紀初頭にアメリカをはじめ、富裕層の住宅などに好んで用いられました。
マンサード屋根は屋根裏階を活用できる利点がありますが、日本ではただの小屋裏となり、屋根裏階を利用した例は少ないと言えます。
<フランソワ・マンサール>
外壁に使われている石は、柱型や基礎部分など青紫がかった部分が登別中硬石という安山岩系の石材、それ以外は主に小樽で採れる奥沢軟石という凝灰岩を使っています。
吹き放ちの車寄にすることが多いエントランス部分はしっかり建具を建て込み、扉を両脇に設けています。
海からの季節風、冬季の防寒対策として、このように設計されているのでしょう。
<両脇の扉>
中に入ると、外観とは雰囲気がうって変わります。
客溜まりからカウンター越しに広い営業室が広がり、格天井の豪華さとそこから吊り下がるコードペンダント式の照明が、シンプルながら重厚な雰囲気を放ちます。
<カウンター>
<営業室>
これは天井の格間中央にあるクラスター(金色の球状のもの)から伸ばされています。
天井は、コードペンダント用の滑車の取りつきや、支柱の柱頭飾りの様子がよくわかります。
<照明>
<天井>
窓ガラスに目をやると、歪んだガラスが防寒対策として二重に入っているばかりでなく、ピンチブロックと呼ばれる羅紗布の隙間止めを框回りに入れています。
美しくもありますが、むしろ機能美を徹底した建物と言えます。
大階段はコの字型に折れ曲がったヴィクトリアンスタイルで、手摺の曲線が絶妙です。
<階段>
2階の貴賓室と会議室の壁には「金唐革紙」を貼っています。
<貴賓室>
金唐革紙とは、ルネサンス期のヨーロッパで発明された皮革工芸品である「金唐革」を元に作られた日本の伝統工芸品です。
金唐革は、革に金属箔を張り装飾模様をプレスして金色に見えるよう上からワニスで仕上げたもので、17世紀の江戸時代前期にオランダ貿易で日本に渡来しました。
その金唐革を「和紙」をベースにして模造したのが、金唐革紙です。
この金唐革紙は、1873(明治6)年のウィーン万博に出品されるとヨーロッパ人の高い関心を惹き、輸出されるようになりました。
<金唐革紙>
建物に話を戻します。
貴賓室の壁は菊を基調に蝶と蜻蛉をあしらい、会議室の壁は緑地にアカンサスの金色浮き出しで、上下のボーダーにはぶどう蔓草模様を施しています。
一般的に、金唐革紙の金は真鍮を溶かしたものを張るのですが、小樽では「金箔」を張っていました。
そのため現在ではほとんどが剥がれてしまい、面影はありません。
<壁、暖炉>
会議室の見どころは、シャンデリアの華やかさとシャンデリアの吊元の美しい漆喰です。
ここで日露戦争のポーツマス条約に基づく日ロ国境画定会議が行われました。
<会議室>
このように、旧日本郵船株式会社小樽支店は「建物」としての見どころが多くあり、歴史的な価値もある建物です。
また、その佇まいから映画のロケ地になったこともあります。
ただ、2018(平成30)年11月4日から2022年3月までの予定で、耐震工事を含む大規模修繕工事が実施されるようです。
その期間は残念ながら休館となるようなので、工事の終了を楽しみに待ちながら、小樽に訪れた際は足を延ばしてみてはいかがでしょうか。