<豊平館>
豊平館は、北海道札幌市の中央区中島公園内にある西洋館です。
この館は元々、開拓使官営のホテルとして建てられました。
最初の利用者は明治天皇で、明治天皇の北海道行幸の際の行在所となった1881(明治14)年8月30日が開館日となっています。
<明治天皇>
以後、要人の宿泊や祝賀会、各種大会に用いられ、その後公会堂となり、第二次世界大戦中に日本軍、戦後にアメリカ軍に接収されました。
元々は、現在札幌市民ホールのある場所に建設されていました。
1958(昭和33)年に中島公園に移設され、2012(平成24)年3月まで市営の結婚式場として利用されました。
その後、改修工事を行い、現在はさまざまなイベントなどに利用されています。
<中島公園>
まず、開拓使について簡単に説明します。
開拓使とは、明治時代に作られた、省と同格の中央官庁の1つです。
北方開拓を重視する政府の姿勢の表れですが、初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは1871(明治4)年からでした。
<開拓使>
開拓使の初代長官には、旧幕時代から北方の重要性を説いていた佐賀藩主鍋島直正が就任しましたが、彼は実務にとりかかる前に辞任しています。
第2代長官に任命された東久世通禧が後を引き継ぎ、部下の判官とともに1869(明治2)年に北海道に向かいました。
<佐賀藩主 鍋島直正>
箱館府が置かれていた箱館(現在の函館)は旧蝦夷地の人口・産業の中心でしたが、位置が南に偏りすぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになっていました。
長官の赴任に同行した佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めました。
のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は壮大でしたが、厳冬の中で予算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任されています。
代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、1871(明治4)年に開拓使庁が札幌に移りました。
明治時代に入るまで、北海道は日本にとって未開の地でした。
しかし、ロシアからの侵攻を防ぐために、どうしても開発が必要でした。
そうはいっても、あのような広大な土地を開発し、なおかつ防衛に当たるというのは至難の業で、同時にアイヌの人々ともうまくやらなければならないという非常に困難な仕事だったといえます。
<アイヌ>
開拓使関連機関として設立された機関のうち、現在まで存続している代表的な組織として、国立大学法人北海道大学とサッポロビール株式会社が挙げられます。
<北海道大学>
<サッポロビール>
北海道大学とサッポロビールは、ともに開拓使によって設立された経緯を持つことから、赤い五稜の北辰星(北極星)を象った「開拓使の徽章」を用いた施設が現存しています。
北海道大学関連では、札幌農学校演武場(現札幌市時計台)や植物園博物館などがその例になります。
<札幌市時計台>
サッポロビール関連では、サッポロビール博物館やサッポロファクトリーに開拓使麦酒醸造所の伝統を引き継ぐ赤い星が記されているほか、現在のロゴマークに用いている金色の星の由来として受け継がれています。
<サッポロビールのロゴ>
さて、そんな開拓使官営のホテルとして建てられたこの建物ですが、この建物を解説する上で、まず一番最初に説明しなければならないことがあります。
それは「ウルトラマリンブルー」という絵具についてです。
17世紀、オランダの画家フェルメールは「青の達人」でした。
代表作は何といっても、「真珠の耳飾りの少女」です。
<真珠の耳飾りの少女>
この絵画に見られる輝くような青色は「フェルメールブルー」とも呼ばれ、世界中の人々を魅了してきました。
この青色を生み出したのが、ウルトラマリンブルーという絵具です。
ウルトラマリンブルーは、アフガニスタン原産のラピスラズリという宝石をすり潰して作られています。
ラピスラズリはツタンカーメンのマスクにも使われるような非常に高価な宝石で、当時この絵具は金よりも高価だったそうです。
<ラピスラズリ>
<ツタンカーメンのマスク>
しかし、フェルメールはこの絵具を惜しげもなく使い、比類ない美しさを生み出しました。
その後、19世紀には安価で色彩的には遜色のない合成のウルトラマリンブルーが登場し、西洋絵画に必要不可欠なものとなりました。
そしてこのウルトラマリンブルーは、豊平館の外壁に利用され、この建物を唯一無二のものにしているのです。
豊平館は、1880(明治13)年に竣工し、翌年に会館しました。
現存する木造の洋風ホテルとしては日本最古のものです。
木造二階建て、15の部屋を持つこの建物の総工費は2万8000円余りで、現在の価値に換算すると約3億円です。
しかし、この中には現物支給された建築資材は含まれておらず、輸入品が大半であった調度品なども含めると、総工費は150億円以上であったともいわれる、とても豪華なホテルです。
<豊平館 冬の外観>
ウルトラマリンブルーを使った建物は、日本国内では非常に珍しく、あまり例を見ません。
北海道の土地柄、雪が積もることが多く、雪の白と、ウルトラマリンブルーが合わさって、まるで外国の洋館に来たかのような錯覚を引き起こします。
そして外観でまず目を引くのが、建物中央の車寄せとバルコニーです。
半円形の車寄せの上にアカンサス彫刻の施されたコリント式列柱のバルコニーが載せられ、西洋風の華やかさを演出しています。
<豊平館 正面>
しかし、その上にある櫛型のペディメントの和風彫刻や、三条実美の筆による「豊平館」の額など、和の意匠も忘れてはいません。
<豊平館 屋根中央部>
内部にある柱の春慶塗やシャンデリア上部のメダリオンも、優雅な曲線を持つ中央階段などの洋風の技巧とうまい具合に融合しています。
1階ロビーのメダリオンは「波に千鳥」を描いたもので、他の場所のメダリオンは「蝦夷菊と牡丹」「鳳凰」など、部屋ごとに意匠の異なる題材が用いられています。
<1階ロビー>
<シャンデリアとメダリオン>
<波に千鳥>
<蝦夷菊と牡丹>
<鳳凰>
2階広間のシャンデリアは、当時の工部省赤羽工作分局が制作したものです。
竣工当時の北海道では、まだろうそくが使用されていました。
<2階 シャンデリア>
この美しい建物の設計は、札幌時計台も設計した開拓使の主席建築家「安達喜幸」です。
<安達喜幸>
<札幌時計台>
ウルトラマリンブルーは、車寄せやバルコニー、外壁の縁取りや柱、そして窓枠にも使われています。
その抜けるような青は、白い板張りの外壁と鮮やかなコントラストを見せています。
創建時には、6.8キログラムのウルトラマリンブルーが使用されていたといいます。
しかし、その後、戦争中の爆撃を避けるため、一時的に黒く塗られており、青を失っていました。
その後、昭和60年代の全面改修工事により、特殊な合成塗料ながらも、往時の美しい色彩が再現されました。
豊平館が竣工した当時の札幌は、開拓使の本庁が置かれてはいたものの、人口が1万人に満たない小さな町に過ぎず、人々は粗末な家に住んでいました。
こうした状況を憂慮した開拓顧問の米国人ケプロンが、「開拓事業にとって最重要課題は、薄紙のような家屋を堅牢なものに替え、住居の体裁を改革することだ」と提言しました。
<ケプロン>
この提言によって、明治政府は開拓使の建物を、原則として洋館とすることを決定しました。
その一環として誕生したのが、この豊平館です。
来日した20世紀最高のバイオリニストの一人、ハイフェッツは、この洋館を「まるで故郷ロシアの宮殿のようで懐かしい」と称えるほど、豊平館は西洋館としての高い完成度を実現していたといえます。
<ハイフェッツ>
フェルメールの絵画に生命力を与え、西洋絵画で重要な役割を担うウルトラマリンブルーを大胆に取り入れた「北の貴賓館」。
雪景色の札幌でとりわけ輝きを放つその青さには、開拓の意欲に燃え、西洋に少しでも近づこうという北海道の人々の熱い思いが込められているのでしょう。
豊平館は、1964(昭和39)年に国の重要文化財に指定されました。
また、2012(平成24)年から2016(平成28)年にかけての4年間の改修工事によって、耐震補強やバリアフリー対応がなされました。
この工事によって、可能な限り明治時代の姿に近い状態に復元されています。
現在この洋館は一般に公開されていて、気軽に見学ができるほか、イベントの開催や貸室、カフェなども運営されています。
<カフェ>
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