<片倉館>
長野県、諏訪盆地にある諏訪湖。
その湖畔にある諏訪や岡谷などの町々は、明治から大正時代、この湖の豊富な水を利用して、製糸業で大いに栄えました。
<諏訪湖>
そんな数ある製糸会社の中でもトップの業績を上げていた企業が、片倉製糸紡績(現・片倉工業株式会社)です。
製糸の中でも、特に絹製品に注力したこの企業の中枢は、片倉財閥といいます。
そしてこの財閥の二代目にあたる片倉兼太郎は「シルクエンペラー」と呼ばれました。
<二代片倉兼太郎>
二代片倉兼太郎は、1863(文久3)年2月12日、信濃国諏訪郡三沢村(のちの川岸村、現在の長野県岡谷市川岸)に、豪農片倉市助の四男・宗広(むねひろ)として生まれました。
のちに長兄・兼太郎の養嗣子になり、佐一(さいち)と名乗りました。
1917(大正6)年2月13日、長兄かつ養父で初代片倉組組長の兼太郎が亡くなり、同年、片倉兼太郎を襲名して二代目となりました。
二代兼太郎は、まず、1920(大正9)年3月14日、日支肥料(のちの片倉米穀肥料、現在の片倉コープアグリ)を、大分県大分市に設立しました。
さらに同年同月23日、片倉組を片倉製糸紡績株式会社として法人化して取締役社長に就任、本社を東京市京橋区(現在の東京都中央区京橋)に移転しました。
そして1921(大正10)年9月、片倉生命保険(のちに合併して日産生命保険、1997年経営破綻)を設立し、社長に就任しました。
取締役には長男の脩一が就任しています。
その後、1922(大正11)年、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国、中南米に長期視察に向かいました。
欧米視察の際立ち寄ったチェコスロバキア(現・チェコ共和国)の温泉地カルロヴィ・ヴァリ(ボヘミア西部の都市)で、労働者のための保養施設が整っていることに大きな衝撃を受けました。
<カルロヴィ・ヴァリ>
当時の日本では、お金を持っている人は熱海や伊豆などの温泉地に行くこともできましたが、それ以外の人々はそんなことはできないという状況でした。
そこで二代兼太郎は、上諏訪に沸く温泉を引いて浴場を作り、付近の農村の人たちに公開してあげたいと考えるようになりました。
こうして、日本に帰国した二代兼太郎は、製糸業に携わる人々や周辺地域住民のために福利厚生施設を建設しようと決心したのです。
これが、1928(昭和3)年に完成した「片倉館」という建物です。
片倉館は当初から、財閥の関係者だけでなく一般市民も利用できる温泉施設として建築されました。
当時、諏訪湖の周辺には製糸紡績関連の工場が4つあり、それぞれが300~600人ほどの従業員を抱えていました。
彼らは夕方になると、仕立ての船で諏訪湖を渡り、片倉館で仕事の疲れを癒していたそうです。
また、片倉館の建設は周辺地域の経済活性化にも一役買いました。
片倉館が建設された当時、日本経済は昭和恐慌の嵐の真っただ中にありました。
<昭和恐慌>
しかし、片倉館の建設を行ったことで、冷え切った地元経済に公共事業のような景気刺激効果がもたらされたようです。
片倉財閥は自社の利益追求だけでなく、従業員の福利厚生、さらには地域経済への配慮も怠りませんでした。
そんな片倉館を設計したのは、森山松之助という人物です。
<森山松之助>
森山は、外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として、1869(明治2)年に大阪市東区平野町(現在の大阪市中央区平野町)に生まれました。
NHKの連続テレビ小説「あさがきた」でも話題となった実業家の五代友厚は、森山の叔父にあたります。
学習院尋常中学校を経て、1893(明治26)年に第一高等学校を卒業後、東京帝国大学工科大学建築学科において、辰野金吾のもとで学びました。
<辰野金吾>
1898(明治31)年に第一銀行建築係嘱託、1900(明治33)年に東京高等工業学校の建築学講座担当を経て、1906(明治39)年に台湾に渡りました。
1921(大正10)年までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけています。
また、1912(明治45)年には欧米各国視察も行いました。
その後日本に帰国し、1922(大正11)年、東京に森山松之助建築事務所を開き、多くの民間建築等を設計しました。
彼の作品には、新宿御苑台湾閣や旧蜂須賀邸などがあります。
<新宿御苑台湾閣>
では、片倉館の話に戻りましょう。
片倉館は、会館棟と浴場棟が左右に並び、その間を渡り廊下がつなぐ構造で建てられています。
<会館棟>
<浴場棟>
森山が描いたパース図によれば、彼がイメージした片倉館は、「湖畔に佇む西洋の古城」といったものでした。
そのために、塔屋を強調したデザインになっています。
<浴場棟 塔屋 >
八角形の塔屋に煙突、水平部分と急な傾斜部分が共存する屋根など、左右非対称で変化に富んだ外観です。
こちらは特にヨーロッパの古城をイメージして造られています。
<浴場棟 屋根>
イギリスのゴシックリバイバルを基調に、モダニズムの再構成を行い、よりスマートに仕上げられています。
浴場棟の玄関ポーチに見られる幾何学的な装飾は、モダニズムそのものといえるでしょう。
<浴場棟 玄関>
この建物の最大の見どころは、何と言っても「千人風呂」と呼ばれる大浴場です。
そこには長さ7.5m、幅4m、深さ1.1mという規格で、プールといっても良いほどの大きさの浴槽があります。
一度に100人が入浴できるそうですが、この浴槽には黒い玉砂利が敷き詰められ、足裏に心地よい刺激を与えてくれます。
洗い場の壁にはステンドグラス、コーナーには水瓶を持った女性の彫像があります。
<千人風呂>
<彫像>
アール・デコの装飾に包まれながら湯舟に浸かっていると、ある絵画を思い起こします。
北方ルネサンス期を代表するドイツの画家クラーナハの「若返りの泉」です。
<若返りの泉>
「その泉に入ると誰もが若々しく生まれ変わり、新たな恋に落ちる」という伝説を一枚の絵にしたものです。
この若返りの泉は石で囲まれた長方形で、立っても体の半分ほどが浸かる深さがあり、中央に水が湧き出す大きな柱があります。
おそらくですが、森山はこの若返りの泉をイメージして片倉館の大浴場を造ったのでしょう。
また、昔は他にローマ式の蒸し風呂もあったそうです。
男女浴室の境に置かれた巨大水槽は、入浴しながら金魚や鯉の姿を楽しむことができました。
浴場棟2階には、食事もできる無料の休憩室があります。
こちらは、映画「テルマエ・ロマエⅡ」のロケ地にもなりました。
<休憩室>
隣の会館棟には、250畳敷きの大広間をはじめ大小の広間が用意されています。
片倉館は、竣工から90年以上たった今でも、往時の姿を保ちながら地域の交流の場として活用されています。
<大広間>
<階段踊り場>
片倉館が完成したのは1928(昭和3)年でしたが、その翌年の1929(昭和4)年にはアメリカ発の世界恐慌が起こりました。
生糸の最大の輸出先はアメリカだったため、相場が大暴落し、第二次世界大戦の足音が近づくにつれ、製糸業は急速に衰退していきました。
<世界恐慌>
1934(昭和9年)1月8日、二代兼太郎は死去し、同年、長男・脩一が片倉兼太郎を襲名して三代目となりました。
その後、片倉財閥は戦後の財閥解体によって消滅しましたが、諏訪には精密機械工業という新たな産業が誕生しました。
戦火を避けて疎開してきた「セイコー」「オリンパス」といった会社は、製糸工業の設備と従業員を引き継いだことで大きな発展を遂げました。
それもこれも、全ては片倉財閥が従業員や地域住民に目を向け続けた功績によるもので、今もなおその功績によって多くの人が豊かに生活することができています。
片倉館はここを訪れた人の、そして地域全体の「若返りの泉」なのかもしれません。
<浴場棟(夜)>
2011(平成23)年6月には、浴場棟と会館棟、渡り廊下の3棟が国の重要文化財に指定されました。
片倉館は、近年流行している温泉テーマパークの先駆けともいえる存在です。
また、国の重要文化財でゆっくりお風呂に入れる数少ない建物の中の一つでもあります。
広い千人風呂にゆったりと浸かって目を閉じれば、まさに古代ローマ帝国の時代にタイムトリップしたかのような気分になれます。
諏訪湖を訪れた際は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。