日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

旧開智学校


1874(明治7)年、東京で発行された新聞が大人気となりました。


毎日新聞の前身である「東京日日新聞」からニュースを選び、派手な色彩画で伝えるという錦絵版の新聞です。


「知見を拡充し、文明開化を進める」という謳い文句で発行されたこの新聞のタイトルを飾っているのは、二体のエンゼルです。


日本の伝統的な錦絵と、西洋文化を代表するエンゼルの組み合わせは、文明開化を象徴する和洋混在の典型として話題を呼びました。

 

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東京日日新聞のエンゼル


それから数年後の1876(明治9)年、長野県松本市に、ある学校が建てられました。


それが、2019(令和元)年5月に、近代学校建築として初めて「国宝」に指定された『旧開智学校』です。

 

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旧開智学校


白い漆喰壁に、大きな腰石と隅石の装飾が印象的な学校建築です。


窓は両開きのガラス戸で、外側に両開きの板戸が付いています。


そしてこの学校にも、新聞とそっくりなエンゼルが舞っています。

 

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開智学校のエンゼル


文字を入れ替えただけのエンゼルのデザインは、この学校の設計・施工を担当した松本地方の第一級棟梁・立石清重(たていし せいじゅう)によるものです。


立石は、活字版の「東京日日新聞」を取り寄せて定期購読したり、長男を東京大学医学部の前身である東京医学校に進学させるなど、時代を先取りする能力が高かったようです。


設計にあたっては、東京や横浜の西洋館を視察し、その際目に留まったエンゼルのデザインを借用したと考えられています。

 

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立石清重


立石は、江戸末期の信濃国松本城下の大工棟梁の家に生まれました。


立石について詳しい記述はあまり残っていませんが、その後、幕府が倒れて明治時代になると、長野県に様々な建物を建築したようです。


立石が建設した建物には、下記のようなものがあります。


・旧開智学校


・松本裁判所


・大町裁判所


・長野師範学校松本支校


・旧制東筑摩中学校


・長野県議会議事堂


学校や裁判所、議事堂など、政府からの命で建設することが非常に多かったようです。


「旧開智学校」は、藩校崇教館から明治維新による松本藩学、廃藩置県による筑摩県学と続いてきた県下第一の小学校です。


1873(明治6)年5月6日に、学制による第二大学区筑摩県管下第一中学区の第一番小学開智学校として創立されました。


創立当初は、廃仏毀釈で廃寺となった旧藩主戸田氏の菩提寺全久院の建物を仮校舎としていましたが、1876(明治9)年4月、学制発布により県令・永山盛輝の命によって、全久院跡地に新しい校舎が新規造営されました。


これが、現存する旧開智学校の校舎です。


この校舎は、藤村式洋風建築などを参考に開成学校や東京医学校を模した、擬洋風建築です。


「開智」の校名は、学制発布の前日に公布された、太政官布告の被仰出書の文中にある「其身を修め智を開き才芸を長ずるは、学にあらざれば能わず」に由来すると考えられています。


県の学校では唯一、「英学」(洋学)が設置されました。


立石だけではなく、この「旧開智学校」には、学校教育自体にも時代を先取りする考え方、文明開化を進める考え方が強くちりばめられていることがわかります。


そして、立石に依頼した永山盛輝もまた、そういった人物だったのでしょう。

 

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永山盛輝


永山盛輝は、1826年9月16日(文政9年8月15日) 薩摩藩士・永山盛広の息子として生まれました。


つまり、元々は薩摩の国(現在の熊本・鹿児島あたり)の生まれで、西郷隆盛と同世代で同郷の人物です。


永山は、江戸時代には、勘定奉行や江戸留守居役を務め藩政改革に尽力しました。


戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し、各地に転戦しています。

 

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戊辰戦争


1869年4月(明治2年2月)に、会計官御東幸中用度司判事に就任しました。


その後、大蔵省用度権大佑、民部省監督権大佑を歴任し、1870年7月(明治3年6月)に伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任しました。


同県少参事、同大参事も歴任しました。


1871年12月(明治4年11月)、伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、1873(明治6)年3月に同権令に昇進しました。


永山は「教育」に非常に力を入れており、旧開智学校でも「英学」を取り入れるなど、常に時代の先を見据えた人物であったとも考えられています。


筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置しました。


旧開智学校の建設の際には、自ら工事現場に出て監督も務めたとも伝えられています。


1875(明治8)年10月、新潟県令に転任し、戊辰戦争からの復興のため、士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力しました。


1885(明治18)年4月18日に元老院議官に就任し、1890(明治23)年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ、1891(明治24)年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となりました。


また、1900(明治33)年5月9日、勲功により男爵を叙爵しています。


その後、1902(明治35)年に死去しました。


永山は、幕末明治の木曽を舞台とした島崎藤村の『夜明け前』に登場する本山盛徳のモデルとされています。

 

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島崎藤村

 


さて、「旧開智学校」の話に戻りましょう。


旧開智学校の工事費は約11,000円かかり、およそ7割を松本町全住民の寄付により調達したそうです。


残り3割は、特殊寄付金及び廃寺を取り壊した古材売払金などで調達しています。


つまり、この学校は松本地方の人々総出で作り上げた、教育の土台だったということです。


上棟式には人力車や馬の往来ができないほどの見物人が押しかけ、開校式には約7,000人の来客と約12,000人の参観者があったと言われています。


校舎の写真は、1884(明治17)年のニューオーリンズ万国博覧会や1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会に出品されるほどでした。

 

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シカゴ万国博覧会


そんな人々の想いを詰め込み、建築物としても高い技術が盛り込まれている建物だったからこそ、1961(昭和36)年3月23日には、明治時代の擬洋風学校建築としては初めて、国の重要文化財に指定されました。


校舎は、1963(昭和38)年3月まで約90年間使用された後、翌年にかけて現在地に解体移築復元されました。


1965(昭和40)年から教育博物館として公開され、年間約10万人が訪れています。


1987(昭和62)年10月6日には愛媛県西予市の開明学校と、2005(平成17)年11月5日には静岡県賀茂郡松崎町岩科の岩科学校と、それぞれ姉妹館提携もしています。


1991(平成3)年には、明治時代の洋式住宅である松本市旧司祭館が、隣地に移築されました。


そして時は流れ、2019(令和元)年5月、ついにこの旧開智学校は、近代学校建築として初の国宝指定を受けたのです。

 

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正面


旧開智学校の外観は、木造二階建て、純白の漆喰壁の上に広く急こう配の瓦葺き屋根が載っています。

 

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外観ななめから


特徴的なのは正面玄関です。


玄関扉を囲むように造られた露台付きの車寄せには、日光東照宮にも見られるような龍や、青い空に浮いた瑞雲の装飾が施されています。

 

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玄関


そして、銅板の唐破風屋根の上には八角形の塔屋、頂上からは避雷針が伸び、東西南北を示す金属板が取り付けられています。


塔屋の正面には半円形の欄間、赤、青、黄、緑の四色の色ガラスはフランスから輸入されたとても高価なものだそうです。

 

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塔屋

 

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色ガラス


玄関を入ると、右側には教員控室、左側には教室が並びます。


緩やかな螺旋階段を上がると、二階には教室のほかに校長室、広い講堂があります。

 

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教室

 

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講堂


本格的な洋館に比べ、天井が少し低いのもこの擬洋風建築の特徴の1つです。


ただし、開口部も小さく設計されているため、建物内部は落ち着いた印象です。


塔屋への上り口の扉や天井のメダリオンなどの「洋」の要素が多く見られますが、一方で、丹念に彫られた竜の木彫りが扉に施されるなど、「和」の要素もしっかり入っています。

 

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照明

 

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塔屋内部

 

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竜の木彫り


現存しているこの校舎の面積は992平方メートルですが、創建当時は長さ59メートルの教室棟が逆L字型に配置されていて、総面積は2,653平方メートルでした。


旧開智学校は、収容人数1,300人というとても大きな規模の学校であったということです。


明治政府は1872(明治5)年に学制を定め、学校建設を推進しました。


しかし、財政に余裕がないことから、建設費を含めた経費は民間負担としていました。


県令・永山盛輝は、「国家の近代化にはまず人づくりが先決」と訴え続け、県下一の学校を作ろうと、寄付金を募集し続けました。


そして次第に地元の人々の賛同を得て、旧開智学校の建設に着手しました。


そんな人々の想いが詰まった学校なので、当然のごとく授業の内容は当時ではとても高度なものだったそうです。


この学校が国宝指定された理由は、建築物としての価値だけでなく、文明開化を推進する人々を作りあげる土台となった「教育としての価値」も非常に重要視されています。


旧開智学校からは、教育を充実させることで近代国家を築こうという、明治の人々の理想と情熱が伝わってきます。


現在も館内は教育博物館として見学可能で、イベントなども行われているようです。


文明開化の時代を象徴する建物と、当時の人々の思いに触れることができる旧開智学校に、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。