中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館は、北海道旭川市にある彫刻の美術館として有名です。
ここでは、旭川市にゆかりのある彫刻家・中原悌二郎の作品を数多く収蔵し、彫刻に関連した作品の展示や企画展・講座なども開催しています。
美術館:展示室
この美術館が開館したのは、1994(平成6)年のことで、それ以前は、旭川市立旭川郷土博物館として使用されていました。
また、博物館としての利用が始まったのは1968(昭和43)年です。
1989(平成元)年(博物館として利用されていたころ)には、国の重要文化財にも指定されています。
しかし、実はこの建物が建てられたのは、1902(明治35)年のことで、今から100年以上前になります。
今でこそ、美術館として一般開放されていますが、この建物はいったい何のために建てられたのでしょうか。
この答えは単純で、「戦争」のために建てられた建築物なのです。
この建築物の当時の正式名称は『第七師団偕行社』です。
「第七師団?」「偕行社?」となる方もいらっしゃると思いますので、まずはこれらについて解説します。
まずは、「偕行社」についてです。
偕行社とは、1877(明治10)年に設立された陸軍軍人の集会所に端を発しており、陸軍の現役将校の英霊奉賛や社員相互の扶助、親睦などの事業を行った組織のことです。
大阪や広島の偕行社では、付属学校も経営をしていたようです。
「偕行」とは、「共に戦に加わろう」という意味で、『詩経』無衣の篇・第三章に収められる漢詩「修我甲兵 興子偕行」に由来します。
そして、この組織の社交場、迎賓館を目的として建設されたものを建築分野で一般に偕行社と呼んでいます。
現在では、全国に6棟残っています。
6棟は、旭川、弘前、豊橋、金沢、岡山、善通寺です。
弘前偕行社
いずれも明治期の建築物で、現存するものの中では金沢のものが一番古く、2番目に古いのが旭川の偕行社です。
金沢偕行社
次に第七師団について解説します。
第七師団は大日本帝国陸軍の師団の一つです。
日露戦争での活躍ぶりから師団の中ではかなり有名なグループです。
第七師団
この師団の目的は、北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団であり、道民は畏敬の念を多分に含め「北鎮部隊」とも呼ばれていました。
鎮台を母体に編成された道外の常設師団とは異なり、第七師団は1885(明治18)年に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体としています。
屯田兵
そして、この師団は1896(明治29)年5月12日に編成されました。
補充担任は旭川師管区で、北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて徴募に当たりました。
基本的には北海道の兵士で構成される建前ではありましたが、北海道は人口が希薄であったために1万人の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられていました。
また、もとは4個歩兵連隊を基幹戦力とした4単位師団でしたが、1940(昭和15)年に編制が改正され、歩兵第25連隊(札幌)を樺太混成旅団に転出して3単位師団なりました。
これらをわかりやすく説明すると、第七師団は日本陸軍グループの1つで、北海道の開拓や防衛を行う任務を行っていた人たちのことです。
その人たちが集まって会議をしたり、扶助を行ってもらったりする場所が第七師団偕行社ということになります。
また、1902(明治35)年にこの建物が造られ、その2年後には日露戦争が勃発します。
北海道は旧ソ連(ロシア)に最も近い場所だったので、第七師団の人たちが多く犠牲になったと言われています。
つまり、この第七師団自体が、ロシアと戦争するために作られたグループとも言えます。
さて、この建物が建設された目的や用途は理解されたと思いますので、次にこの建物を建築した人物について解説していきます。
『第七師団偕行社』は1902(明治35)年、陸軍臨時建築部所属の滝大吉という人物によって設計されています。
滝大吉
滝大吉は、豊後国日出(現・大分県日出町)で生まれ、1977(明治10)年に工部大学校に入学し、造家学を専攻しました。
卒業後、警視庁御用係を経て、太政官会計局に転じ、そこでJ・コンドルの助手として多くの建築に携わりました。
1886(明治19)年には河合浩蔵らと、造家学会(現日本建築学会)の設立に奔走します。
しかし、翌年には官職を辞め、帝国工業会社に入社しました。
そしてまもなく、神戸で明治工業会社を設立し、建築部長となりました。
さらには、1891(明治24)年に陸軍に身を転じ、12月には陸軍技師となりました。
そして、インドや台湾、中国へと出張して、兵営築造に従事しています。
このような多くの経験や知識をもとにして『第七師団偕行社』の建設を担当することになったため、兵営築造から得た実用的な部分とJ・コンドルの助手として働いた経験から得た建物としての景観美、機能美的な部分を兼ね備えた建物が生まれることになりました。
ジョサイヤ・コンドル
また、滝大吉は実は音楽家として有名な滝廉太郎の従兄弟であり、廉太郎が東京音楽学校(現・東京芸大音楽部)在学中は自宅へ寄宿させたりとよく世話を焼いていたそうです。
滝廉太郎
それでは、このような人物が設計した『第七師団偕行社』を建築物としてみていきましょう。
まず外観正面を見ると目に留まるのは、くし形の破風と、半円形の車寄、大きな吹き放ちのベランダです。
外観:正面
外観:屋根
白亜の外壁から札幌の豊平館と間違える方が多いですが、旭川の偕行社ではこの大きなベランダが特徴となっています。
外観:2階ベランダ部分
豊平館
しかし、本来、吹き放ちのベランダは夏季に涼風を得るためのもので、積雪寒冷地である旭川には不釣り合いな機能とも言えます。
ですが、旭川は盆地でもあり、フェーン現象が起こる場所で、夏季に急激に気温が上昇することがしばしばあります。
それを見越して吹き放ちのベランダを設計に採用していることが予想でき、滝大吉の建築や土地に関する知識が垣間見えます。
ベランダ支柱につく四分円の持ち送り板や軒下の腕木は、開拓使が札幌で建てた建物に頻繁に用いているデザインと同じなので、設計者の滝大吉はこの札幌の街を参考にしたと推測できます。
内装では、アメリカンヴィクトリアン風の重厚な階段手摺や窓の上部に半円欄間を設けた大きな庇が特徴的です。
内部:階段
内部:アーチ型の美しい窓 左右の窓には庇がついている
また、現在では美術館として利用されていますが、旧第七師団の関連施設として、覆馬場と円筒形の軍用水道バルブ室が残っています。
覆馬場とは、雪国である旭川独自のもので、冬季の軍馬飼育、訓練のために考案された屋根付きの馬場です。
旧覆馬場
覆馬場 側面
軍用水道バルブ室
構造としては、煉瓦造りに木造りのトラスをかけています。
現在は地元のバス会社の整備工場として利用されています。
また、開拓使とは、北方開拓のために1869(明治2)年から1882(明治15)年まで設置された中央官庁のことです。
この中央官庁関連の建築にかんしては、アメリカ人技師ボルトらが設計しています。
開拓使 札幌本庁
そのため開拓使の建築物の多くはカーペンターゴシック、アメリカンヴィクトリアンといったアメリカの木造建築様式で建てられています。
『第七師団偕行社』の建設当時は建物前庭の入口に門が取り付けられていました。
往時には、皇太子時代の大正天皇や昭和天皇の行在所としても使用され、威厳があったようです。
また、1945(昭和20)年に第二次世界大戦で日本は敗戦し、終戦当時はアメリカ軍の将校達が集まる将校クラブとして使用された時期もあったといいます。
旭川偕行社は1949(昭和24)年に、管理元を国から旭川市へ移譲となり、周辺学校の仮校舎として使用されたりしました。
しかし、その後は次第に使われなくなり、ついには「お化け屋敷」と呼ばれるほどに荒れ果てていきました。
元々、戦争のために作られた建築であり、英霊を弔う場所でもあったため、いわくつきの建物として地元では有名になっていったようです。
お化け屋敷時代
そして、1968(昭和43)年になってやっと初期の外観を復元するために修復工事が行われ、旭川市立旭川郷土博物館として新たに開館しました。
しかし、明治期の建築だったので補修がところどころ必要になり、1976(昭和51)年にも大規模な補修工事のため半年以上休館しました。
1993(平成5)年に郷土博物館が新しく完成した旭川大雪クリスタルホールへと移転することが決定し、まもなく移転しました。
1992(平成4)年にこの建物を活用するために旭川市にゆかりのある彫刻家・中原悌二郎を記念する施設への転用されることになり、1994(平成6)年に現在の中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館へと生まれ変わりました。
1989(平成元)年には、その建物の歴史やデザイン(コロニアルスタイルの擬洋風建築としての特徴と各部の意匠)などが認められ、国の重要文化財に指定されています。
旭川市において重要文化財に指定された建物としては初であり、同時に唯一のものとなっています。
2002(平成14)年には旧旭川偕行社が建設されてから100周年を迎え、「旧旭川偕行社」100年記念展を実施しています。
さらに、1998年~1999年、2012年~2015年に大規模な改修工事が行われました。
美術館に展示される彫刻の作者である、中原悌二郎は、北海道の釧路で1888(明治21)年に生まれました。
子供のころから絵が好きで、養家の反対を押し切って17歳で上京、画家を志しました。
油絵の勉強の途中でたまたま見た彫刻家ロダンの「考える人」の写真に感動、さらに欧米から帰ったばかりの彫刻家、荻原守衛を知って強い感化を受け、彫刻に転じています。
ロダンの「考える人」
旭川との深い縁は、ロシア文学者、米川正夫との交流によるものです。
米川が1912(大正元)年に旭川の偕行社でロシア語を講じたのがきっかけです。
東京と北海道を行き来していた中原が、第7師団に入営中の友人の画家、万鉄五郎や作家の岡田三郎を誘ってしばしば米川を訪れ交遊を深めていったのです。
このようなことから、第七師団偕行社と縁の深い人物となり、生前に残した多くの彫刻が時を経て展示されるようになりました。
このように、今現在旭川市で彫刻美術館として利用されている建物は、もとは戦争のために作られた陸軍の社屋であり、時を経てその社屋と縁のある人物の美術館となっていきました。
展示されている彫刻を楽しむのと同時に、戦争の真っただ中にあった時代に陸軍の社屋として利用された建物自体を楽しむのも良いのではないでしょうか。