<六華苑>
三重県桑名市にある六華苑は、実業家・二代目諸戸清六(にだいめ もろと せいろく)の新居として、1913(大正2)年に完成した邸宅です。
揖斐川・長良川を望む広大な敷地に、洋館と和館、長屋門、蔵が並び、池泉回遊式の日本庭園により趣深い情景で有名です。
<揖斐川>
<長良川>
桑名は、東海道五十三次の42番目の宿場町として栄えてきた街です。
<東海道>
尾張と桑名を海路で結ぶ「渡海」の光景は、浮世絵の題材として好まれ、歌川広重の「桑名七里の渡舩」にも描かれています。
木曽川・長良川・揖斐川の3川の河口に位置する桑名は、その恵まれた水利を活かし、尾張・美濃・伊勢といった穀倉地帯の米の集散地として近世には物流の拠点ともなりました。
このように、桑名は古くから人々が行き来し栄えてきたのですが、近世の桑名の発展とともにあったのが諸戸家です。
<桑名の位置>
諸戸家は、三重県伊勢・桑名の名家で「日本一の山林王」と言われた一族です。
諸戸宗家・本家の両家を合わせると、諸戸一族が所有する山林は巻間一万町歩と言われるほど、その財力や資産は数えることができないほどです。
一族のこの富の源は、初代諸戸清六に遡ります。
初代清六は1846(弘化3)年、諸戸家の長男として生まれました。
<初代諸戸清六>
幼名を民治郎といいましたが、18歳のとき名前を「清六」に変えました。
この名前の由来は、庄屋まで務めていた旧家だった諸戸の家をつぶしてしまった父「清九郎」の名をひっくり返して「清郎九」→「清六」と変えたことが由来です。
その時に、現在でも諸戸家の家訓になっている「立志の誓い」を行ったそうです。
初代清六は、「時は金なり」を信条として勤倹節約を実行し、米の売買など寝る間も惜しんで働いた結果、わずか3年ほどで父の作った膨大な借金を全部返済しました。
その後1872(明治5)年、三重県令岩村定高と知り合い、政商的な色彩を強め、後に大隈重信や松方正義、品川弥二郎、大倉喜八郎、渋沢栄一、森村市左衛門らと親しく付き合うことなります。
<岩村定高>
<大隈重信>
<松方正義>
<品川弥二郎>
<大倉喜八郎>
<渋沢栄一>
<森村市左衛門>
初代清六は西南戦争では米の相場で大儲けし、大蔵省御用の米買方となりました。
米相場から土地に手を出したのは、1883(明治16)年頃からです。
「田地買入所」の幟を立てて買い始めましたが、わずか5年ほどで、初代清六が買い集めた田地は5千町歩にものぼりました。
さらに初代清六の土地買いは田地田畑だけにとどまらず、東京の恵比寿から渋谷、駒場に至る住宅地30万坪を買いまくりました。
ひと頃は渋谷から世田谷まで、他人の土地を踏まずに行けたと言われています。
住宅地の土地売買が日本で本格化したのは1900(明治33)年に入ってからですが、1880年代後半から1890年代にかけて「住宅地」の買占めを行った初代清六の先見の明はすさまじいものがあったと言えます。
さらに植林事業でも莫大な財をなした初代清六は、地元の公共事業への投資にも力を注ぎました。
当時飲料水事情の悪かった桑名に、私財を投じて上水道「諸戸水道」を引き、一般開放します。
市内の55か所に共用栓、24か所に消火栓を設置し、市民に無償で提供しました。
初代清六は、これらの工事費用だけでなく維持経費も負担したのです。
1904(明治37)年に竣工したこの諸戸水道は、軍用を除いた近代的な上水道としては全国7番目のもので、1929(昭和4)年まで使用されました。
諸戸家がなければ桑名の近世の発展はなかったと考えられるほど、非常に重要な役割を担っていたと言えるでしょう。
二代目諸戸清六は、初代清六の四男「清吾」として1888(明治21)年7月24日に生まれました。
1906(明治39)年に初代清六が死去すると、初代清六の二男「精太」が諸戸宗家(西諸戸家)を、清吾が二代目清六として諸戸本家(東諸戸家)をそれぞれ称するようになりました。
宗家は、諸戸林業、諸戸商会、諸戸タオル、諸戸土地、日本みどり開発を中心に、本家は諸戸林産、諸戸緑化産業、諸戸産業、諸戸造林などの各事業を中心に「諸戸グループ」を形成しています。
まずは諸戸宗家について見ていきましょう。
宗家精太の長男精文は、1935(昭和10)年に名古屋高等商業学校を卒業していますが、在学中に家業を継ぎました。
この精文は、俳号を月春といい高浜虚子の弟子にもなっています。
<高浜虚子>
精文の妻綾子は、元山梨県知事などを務めた内務官僚で、後に実業界に入り東京電灯常務を経て高岳製作所社長になった本間利雄の長女です。
綾子の母八重は、元大蔵大臣で三井財閥三井の大番頭であった池田成彬の妹です。
つまり諸戸家は、三菱の大番頭の加藤武男元三菱銀行頭取、さらに藤山雷太、福澤諭吉、中上川彦次郎といった、日本の資本主義の源流の人脈にもつながっているということです。
<福沢諭吉>
精文の妻である綾子の兄、本間利章(元ミキモト社長)の妻幸子は、「真珠王」の御木本幸吉の孫娘なので、「山林の諸戸」と「真珠の御木本」は、両家本流で縁続きにもなっています。
さらに、精文の長女治子が元同和火災海上会長岡崎真一の二男藤雄(内外ゴム社長)に、治子の妹和子も藤雄の弟由雄(東京衝機製造所社長)にと、諸戸家と岡崎家とは、兄弟姉妹同士が結ばれるという非常にかかわりの深い間柄となっています。
岡崎家は神戸岡崎財閥の創始者一族で、山崎豊子氏の小説『華麗なる一族』のモデルとされたとも言われる有名な家系です。
岡崎家はさらに、長野の小坂財閥・小坂善之助の一族や、海運王の山下亀三郎の一族などにつながりをもっています。
精文の長男精孝(諸戸ホールディングス代表、諸戸林業会長)の妻は、「時計王」服部時計店の創設者服部金太郎の孫娘です。
次に、諸戸本家の二代目清六家の家族についてです。
二代目清六の妻てるは名古屋の旧家高橋家から嫁ぎましたが、清六の姉ひさは、てるの兄彦二郎に嫁ぐという、二重の婚姻関係を持っています。
高橋彦二郎は元愛知県穀物卸共同組合会長を務めたこともあり、元内外編物専務高橋吉彦と元中部電力の監査役高橋彦蔵らは共に実弟です。
また彦二郎の末弟の豊彦は、神戸乾財閥・乾新兵衛の長女道子に婿養子入りし、乾汽船社長となりました。
彦二郎の長男正義の妻鎮は、元キッコーマン醤油社長茂木佐平治の妹で、茂木財閥はキッコーマン醤油で知られる千葉県・野田の豪族です。
さらに彦二郎の長女とし子は、日清紡績や磐城セメントの創始者で元東京瓦斯社長岩崎清七の三男三郎(交詢社常務理事)に。
二女喜代子は、尾張徳川家御用達の綿糸商信濃屋(現:信友)二代目近藤友衛門の四男、近藤信四郎に。
三女美津子は、駿河銀行会長岡野喜一郎に。
そして四女喜久子は、元鐘紡社長津田信吾の息子守民(元カネボウシルク常務)に、それぞれ嫁いでいます。
二代目清六の長男民和(諸戸林産社長)の妻は、元東京海上火災会長鈴木祥枝の長女。
二男鉄男(東京海上火災監査役)の妻節子は、元三菱油化相談役池田亀三郎の長女。
このように、民和・鉄男の兄弟の方は、係累がすべて三菱です。
そして民和の長男正和(諸戸林産社長)が迎えた妻が、中部財界の雄で中経連会長だった元中部電力相談役井上五郎の三女愛子で、地元の財界の大御所とも、しっかりと閨閥を結んでいます。
井上五郎の父角五郎は広島県出身の代議士で実業家で、五郎の妻雅子は第三次桂内閣の陸相旧男爵木越安綱陸軍中将の六女です。
五郎の長男琢郎(東京電力)と二男安城(三菱商事)は、共に「法皇」といわれた一万田尚登元日本銀行総裁の娘を、それぞれ娶りました。
五郎の兄昇(元京大教授)の妻寿重子は、元伊勢神宮大宮司である旧伯爵坊城俊良の妹です。
そして五郎の末妹タカの嫁ぎ先は、菅原電気社の長菅原卓です。
五郎の弟真六(元鹿島建設顧問)の妻元子の姉直子は、元国際電々会長濱口雄彦に嫁ぎました。
濱口雄彦の次女俶は、皇后美智子様の兄正田巌に嫁いでいます。
したがって濱口家を通して井上家は正田家とつながり、皇室へも係累が拡がっています。
このように、諸戸家は日本国内の政財界、果ては皇室と、おそらく日本国内でもトップレベルの広く深いコネクションを持っている家系であることがわかります。
そんな一族の本家の二代目が残した邸宅の1つが六華苑です。
その中でも洋館は、鹿鳴館やニコライ堂などを設計し「日本近代建築の父」と呼ばれた、英国人建築家ジョサイア・コンドルが手掛けています。
<ジョサイア・コンドル>
ジョサイア・コンドルは、明治10年(1877年)に明治政府に呼ばれ来日し、皇室博物館や鹿鳴館などの設計を担当しました。
工部大学校造家学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教授も務め、日本に本格的な西洋の建築学をもたらしました。
1886(明治19)年に政府との契約が終了した後も日本に滞在し、東京・丸ノ内の三菱煉瓦街建設など、三菱創始者の岩崎家をはじめ、財閥や政府高官など明治を代表する要人の邸宅を手がけました。
その後1911(明治44)年、コンドルが59歳の時、地方の青年実業家であった二代目清六から洋館の設計を依頼されました。
当時まだ二代目清六は23歳という若さでしたが、建築界の重鎮であったコンドルに設計依頼ができたのは、大隈重信や岩崎家との交流があったからと言われています。
六華苑の洋館は木造二階建て、ヴィクトリアンスタイルを基調とした住宅です。
<外観>
庭園に面して多角形に張り出した1階のテラスと、2階のサンルームが特徴的です。
なかでも、2階建ての本体部分との比例を無視して高く突出した4階建ての塔屋が印象的で、一度見たら忘れられません。
設計図によれば当初、塔屋は3階建てとして設計されていましたが、「揖斐川を見渡したい」という二代目清六の意向を反映し、4階建てに変更されました。
<外観玄関>
二代目清六は場所を特に気に入り、客を塔屋最上階に招待して揖斐川を往来する船の景色を楽しんでいたようです。
コンドルの作品には、東京の旧古河庭園などのように、洋館に合わせて洋風花壇が造成され、建物に彩りを添える例が多いです。
六華苑の図面にはバラの円形花壇がありましたが、大正末期から昭和初期にかけての改修の際に撤去されました。
<旧古河庭園>
洋館は東に面した入り口に車寄を設け、ここから御影石の階段を2段上がって玄関に入ります。
玄関扉を開けると、広いホールがあり、それを取り囲むように北東角の応接室、北西角の電話室、南側には客間と食堂が隣接します。
<ホール>
ホールの階段はアールヌーヴォーの雰囲気が漂います。
手摺のデザインはコンドルが凝った部分の1つで、手摺の板面にはハート矢印型の透かしが施されています。
<階段>
<階段手摺>
ホール西側の扉を開けると畳廊下が現れ、日常生活の中心となる和館へ直結します。
<和館>
和館と洋館を併置する構成は、明治期の大邸宅ではよく見られますが、敷地内に離れて建てられる例が多い印象です。
六華苑のように、洋館に連続して大規模な和風の建築を配置する手法は、同じくコンドルの旧岩崎庭園を彷彿とさせます。
洋館と和館を一列につなぎ合わせたことによる違和感がないのは、建物に並行した日本庭園の横長の池によって自然と視線が誘われるよう設計されているためです。
<洋館と和館>
洋館2階のサンルームからの俯瞰、客間として使われた和館一の間の付書院から望む滝、聞こえてくる水音など、建物と庭園が密接かつ見事に調和し、呼応しています。
このように、六華苑は政財界、皇室にも太いコネクションを持つ明治・大正期の最大級の名家の洗練された感覚が垣間見える建物です。
そして同時に、近代日本建築の父と呼ばれたジョサイア・コンドルの代表作品の1つでもあります。
六華苑は、桑名市が土地を取得、建物も寄贈を受けて1993(平成5)年から一般公開されています。
さらに、1997(平成9)年に国の重要文化財に指定され、庭園も一部を除いて2001(平成13)年に国の名勝に指定されました。
またその印象的で美しい外観や内装から、映画やドラマの撮影に使われたり結婚式の前撮りに使われることも多いようです。
その他にも、催し物や講座などで一般の方にも貸し出しされています。
ホームページに見学できない日時や部屋が記載されていますので、見学される方は事前に確認してみてください。
桑名あたりに来られた際は、ぜひ一度立ち寄ってみることをおすすめします。