出雲大社と言えば、日本人なら誰もが知っている日本で最も有名な神社の1つです。
今日では、縁結びで有名なこの出雲大社ですが、もともとは神話になぞらえて建立されました。
そして、旧暦の神無月には日本全国の神々が大社に集まることから、この地域では「神在月」とも呼ばれます。
出雲大社
また、現在の出雲大社は二代目で、初代の大社は今の約2倍の高さがあったと言われています。
当時の建築技術では到底造れるものではないと言われていましたが、巨大な宇豆柱(うずばしら:多くの丸太を1つに結び付けて一本の柱にしたもの)が発掘され、初代出雲大社の圧倒的なスケールが事実だったことを証明しています。
初代大社再現図
発掘された宇豆柱:多くの丸太を1つに結び付けて一本の柱にしたもの
さて、そんな日本を代表する超有名な出雲大社に参拝する人のために明治期~大正期に造られた駅舎があります。
それが『旧大社駅』です。
この駅舎は1990(平成2)年に廃止されていますが、地元の人々の願いもあり、この駅舎は今も存在します。
旧大社駅
廃止当時、この駅舎のホームは島式・相対式ホーム2面3線を持った地上駅でした。
そして、これら3線はホームの末端で1線に収束した後、その先に車止めが設置されていましたが、その引上げ線はかなり距離が長く、道路と交差する部分もあり、踏切も設置されていました。
ホームと線路
さらに上述した通り、出雲大社の膝元であることから、1951(昭和26)年から1961(昭和36)年までの間は東京直通の急行列車「出雲」が運行されていました。
ちなみに島根・鳥取の両県を総称する山陰地方では、現在東京直通の列車は存在しません。
その後も1980年代まで「大社」や「だいせん」といった急行列車や、参詣者の団体臨時列車などが乗り入れてきていたため、ホームは非常に長くなっています。
最盛期には年間300本近い臨時列車がここを往来していたというので、いかに隆盛であったかが分かります。
また、東京直通の急行列車を作った理由として最も大きいのは、出雲大社が神道発端の地であることが挙げられます。
神道のトップは天皇であり、天皇がいるのは東京です。
そのため、天皇がいつでもその地に来れるように作られたのだと言われています。
ホームが長い駅として有名なのが京都駅ですが、京都は観光条例の問題から、高さのある建築物を作ることができません。
そのためにホームを長くし、30以上の路線を持っています。
現在の京都駅
しかし、大社駅は2面しかホームがないのに、ホームが長く設計されています。
駅舎は中央本線高尾駅の北口駅舎を設計した曽田甚蔵によるもので、伊東忠太がお墨付きを与えたとも言われていました。
もちろん、駅の内装には伊東忠太のデザインが随所に見られ、この人物が建築に関わっていることは明らかでした。
伊東忠太
伊東忠太は1867年11月21日(慶応3年10月26日)に、山形県米沢市で生まれました。
その後、少年時代を東京、佐倉で過ごし、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となりました。
西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した人物でもあります。
法隆寺
また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改め、「建築進化論」を唱えました。
それを実践するように建てられた国内の有名な建築として、独特の様式を持った築地本願寺があります。
1943年(昭和18年)には建築界で初めて文化勲章を受章しました。
築地本願寺と伊東忠太については、以前のブログにて深く触れています。
是非、足をお運び頂けたら幸いです。
築地本願寺
また、伊藤忠太の教え子で彼の建築思想に大変影響を受けていた藤井厚二の『聴竹居(旧藤井厚二邸)』も大変面白い建築物です。
お時間がある時に、ぜひをお読み頂ければと思います。
聴竹居(旧藤井厚二邸) 実験住宅の完成形の姿とは - 日本のすばらしい建築物
本題に戻りますが、このような人物が関わっていることから、いかにこの「大社駅」の建築が重要だったということか想像できます。
しかし、大社線廃止後、駅舎の屋根裏調査で上棟式の棟板が発見されて設計者は、当時の神戸鉄道管理局の技手、丹羽三雄であったことが判明しました。
なぜこのような重要な建築物の建築がいち管理局の技手に任されたのか、真意は未だに解明されていません。
そもそも、棟板が発見されたこと自体が偶然の出来事で、丹羽三雄がどのような人物だったのかも鉄道管理局の技手であるということ以外はわかっていません。
このような不思議な背景も持っているこの駅舎ですが、初代駅舎は1912(明治45)年に国鉄大社駅の開通により開業され、1924(大正13)年2月に新たに改築されました。
出雲大社の門前町にふさわしい、純日本風の木造平屋建てで、出雲大社を模した造りで、和風趣向の際立つ建物です。
外観:正面
JR大社線は、1990(平成2)年3月31日に廃止され、その後旧大社駅舎は2004(平成16)年国の重要文化財に指定されました。
また当駅とは対照的なモダンな西洋建築で、一畑電車出雲大社前駅とともに近代化産業遺産にも認定されています。
一畑電鉄の出雲大社駅は今も利用されており、現在大社に電車で行く場合はこの路線を使う必要があります。
一畑電鉄出雲大社駅
さて、それではこの二代目旧大社駅の駅舎について建築物として掘り下げていきます。
まず、駅舎の外観ですが、黒い屋根瓦に漆喰の白壁という純和風のデザインです。
そして威風を誇る屋根にもいろいろと特徴があります。
中央には千鳥破風が取り付けられ、また、棟には鴟尾(しび)が乗り、各破風には懸魚(げぎょ)が付けられています。
屋根
瓦はいずれも特製で、一般の物より大きく玄関中央の懸魚の上野瓦は鉄道らしさを感じる、国鉄マークである動輪の瓦があります。
動輪入り鬼瓦
左右対称で社殿風な造りは出雲大社を意識していることがわかります。
屋根の下り棟の先端には様々な形をした亀の瓦も見られ、当時の背景を反映させて造られており、威風を放つ外観にも遊び心を感じます。
屋根の亀
こういったデザインの1つ1つのアドバイスを伊藤忠太が行ったのではないかと言われています。
外観は純日本風の建物ですが、駅舎の中に入ってみると、高く設計された天井からは大正風の灯篭型の和風シャンデリアが玄関を含めて30個備え付けてあります。
高い天井の高窓から外の光が差し込んで駅舎内を明るく照らし、天井と漆喰の壁から吊るされたシャンデリアが和洋折衷な趣きを一層強調しています。
内観
シャンデリア
和風建築では柱を立てずにこれだけ広い空間を作り出すことはできず、つまり小屋裏はトラス構造という西洋式の建て方で作られています。
一見完全な和風建築で出雲大社を模した建築と思われがちですが、当時最先端の西洋建築の技法を利用して建てられていることもわかります。
トラス構造
待合室は正面に向かって右手が二等待合室、中央の大きな三等(一般)待合室と二つあり、昭和初期までは分けて使用されていました。
三等待合室内の天井にはストーブ用煙突が立ち上がっていた痕跡が残っています。
そして柱のない広々とした空間のホーム側中央に、どっしりと据えられた木製の出札室(切符売り場)は駅舎内のシンボル的存在です。
出札室内部には机や黒電話、回転式の切符収納棚などが当時のまま残されており、昔を思い出して懐かしさを感じる人も多いようです。
出札室
出札室を正面に見て右手奥には一等待合室・上述した二等待合室と小荷物扱室があり、左手には事務室と、皇室からの勅使が使用した貴賓室がそのまま保存されています。
現代のシステム化された駅舎と比べると、昔とはいえここが駅舎だったとはにわかに信じがたい風格を感じると同時に、かつてここが出雲大社の参拝客で賑わっていた様子がよみがえってくるような、当時の雰囲気をそのまま感じられる空間となっています。
およそ、建築を仕事としていなかった人物が建築した建物とは思えない見事な建築物です。
ここから木製の改札口を抜けると、忙しく動いていたであろう信号機や国内では非常に珍しい石製の団体用改札口などが見えてきます。
木製改札口
石製改札口
さらに、2面3線の長いホームを持つ大社駅には今も線路が残されており、3本目の線路にはSLの通称「デゴイチ」と呼ばれるD51774号機が保存され、当時の光景を彷彿とさせてくれます。
デゴイチ
このデゴイチは一般開放されており、運転席に登ることができます。
また、路線上は自由に歩けるので、「線路の上を歩く」という体験もできるようです。
初代駅舎が建てられた1912(明治45)年から廃止された1990(平成2)年までの間に、日本国内では本当に様々なことが起こりました。
2度の大戦を経て、最後に大敗したにも関わらずそこから一気に経済成長し、先進国になり、バブル期を迎えました。
このように目まぐるしく状況が変わったおよそ80年間の間にこの駅舎は、日本神話で八百万の神々が生まれたとされる地である出雲大社の玄関口として日本国内の多くの人々を迎え入れてきたのです。
昔の大社駅写真
そして現在では、出雲大社は縁結びの神社として有名になり、観光客でにぎわっています。
この地域で広く食べられる郷土料理として、出雲そばも有名です。
次回、出雲大社に来る機会があれば、この廃止された素晴らしい駅舎を見てみるのも良いのではないでしょうか?
現在は駅舎内にカフェがあり、のんびりすることもできるのでおススメです。