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日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

聴竹居(旧藤井厚二邸) 実験住宅の完成形の姿とは

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。 

 

『何度も自邸を建てる』

 

それも5回ともなると余程気に入らなかったのか、大変わがままな大富豪からの依頼なのか・・・

 

普通ではなかなか考えられないことですが、自分の自宅を実験住宅として建てては壊したり、すぐに譲ったりしていた建築家がいました。

 

それは、大正から昭和にかけて活躍した建築家・藤井厚二です。

 

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藤井厚二

 

京都の大山崎の天王山の麓に12,000坪の土地を購入し、そこに4度にわたって自邸を建てました。

 

自邸を検証のための実験として作り、実際に暮らした上でよりよい日本人の住まいのあり方を追及したのでした。

 

今から80年以上前に、時代に先駆けて『日本の気候風土に適した住宅』を追い求めた藤井とはどんな人物だったのでしょうか?

 

藤井が完成形とした住宅はどんな姿をしているのか?を考えつつ、実験住宅最後(5度目)の自宅「聴竹居(ちょうちくきょ)」を見ていけたらと思います。

 

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藤井厚二は、1888(明治21)年、広島県福山市で生まれ、地元で代々造酒家の次男として生まれます。

 

藤井家は地元では大変有名な豪商で、造酒屋「くろがねや」の他に、広大な土地と莫大な金を持ち、金融業も行っていました。

 

父親の与一右衛門は1898(明治31)年に死去したため、長男の祐吉が12歳という幼さで第12第当主を継ぎ、厚二はまだ10歳でした。

 

大変めぐまれた環境で育ち、地元の福山中学校を卒業後、岡山県の第六高等学校(後の岡山大学)を卒業しています。

 

第六高等学校の開設が1900(明治33)年ということなので、開設して7年後の入学にあたります。

 

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第六高等学校 後の岡山大学(場所は現在とは異なります)


旧制高等学校は後に全国に39校ありましたが、明治期に創設された旧制一高から旧制八高は、それとは意味合いが異なります。

 

他と区別するため、特別に「ナンバースクール」と呼ばれていました。

 

そもそも旧制高等学校は、主に旧制中学の課程から帝国大学に進学を目的にするための中間過程の教育を受ける学校です。


その中でも、ナンバースクールは、先行設立校であったために政官界に卒業生を早く送り込んでおり影響力も大きく優位に立ち、エリート校として知れ渡りました。


そのため、学制が新制に変わったあとも根強く残り、ナンバースクールのイメージにあやかる意味もあり、「〇〇一高等学校」等のナンバーをつけた学校も誕生しました。


しかし、公立高は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が学校間格差の廃止を掲げていたため、その指示によりネームスクール(番号を用いない一般名称)へ変更しています。


しかし、GHQの影響下ではなくなると、数年後には再びナンバー制に戻した学校も少なくないようです。

 

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第一高等学校 後の東京大学

 

藤井が22歳の時に、東京帝国大学工科大学建築学科に入学します。

 

学生時代は、母と学習院に通う妹と一緒に東京小石川に住んでいました。


財力に恵まれ、出世コースを順風満帆に歩み、大変大切に育てられたと想像できます。


大学では、「法隆寺建築論」を発表し平安神宮や築地本願寺を設計した「伊東忠太」に教わっています。

 

築地本願寺 - 日本のすばらしい建築物

 

築地本願寺でも取り上げたように、伊東忠太は独特の感性と独自の建築様式を持ち、行動力あふれる建築家です。


藤井も伊東忠太の建築思想に大変影響を受けていたようです。

 

大学卒業後、7年という短い期間ではありますが、竹中工務店で最初の帝国大学卒設計課員として入社し神戸で勤務しています。


その際、大阪朝日新聞社社屋を設計担当していますが、その際の設計顧問に武田五一がおり、二人は運命的な出会いをします。

 

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大阪朝日新聞社社屋:現存しません

 

藤井が27歳、武田が43歳。


まさに武田が脂がのった時期と言えるでしょう。


同じ福山出身ということもあり、意気投合したのは言うまでもありません。


しかも、武田は住宅改良会の顧問でもあり、自ら住宅に関心を持つ建築家の一人で、藤井が考える日本風土にあった実験住宅を建てるという彼の思想にも大きな影響を及ぼしました。

 

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武田五一

 

武田五一とは「関西建築界の父」と呼ばれる近代日本の代表する建築家の一人です。


東京帝国大学卒業後、同大学助教授などを経て、京都帝国大学建築学科を設立しました。


現在まで続く雑誌『新建築』創刊にもかかわり、ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボーなどの新しい建築を日本に紹介しました。


フランク・ロイド・ライトと親交があり、国会議事堂建設をはじめ多くのプロジェクトに関与しています。

 

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名和昆虫研究所記念館:1907(明治40)年 岐阜県岐阜市

 

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旧山口県議会議事堂:1916(大正5)年 山口県山口市

 

藤井は竹中工務店を退職後に9か月ほど自身の研究のために欧米を視察していますが、帰ってきたその年に武田が創設した京都帝国大学工学部建築学科の講師に呼ばれ、1920(大正9)年49歳で死去するまで教授を務めました。

 

藤井は先に述べたとおり、大変経済的に恵まれた環境で育っています。


そのため、幼いころから実家では日常的に素晴らしい名品たちを見て触れて育ちます。


第一級品の名画、書、茶器など、豪商の子息としての環境が本物を見極める目を育てていきました。


さらには、自ら陶芸を焼き、茶道を嗜み、スポーツも万能だったと言います。


福山の豊な自然と、日本文化に造詣の深い環境がその後の建築設計の根底にあるに違いありません。

 

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大覚寺心経殿:1925(大正14)年

 

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中田邸(扇葉荘):1937(昭和12)年 遺作

 

そんな藤井が、恵まれた財力を活かして研究を重ねていたのが、「実験住宅」と呼ばれる自邸です。


それは仮設というものではなく、しっかりとした住宅で、それが5回にわたって建設されました。

 

この時代(大正初期)の日本建築は、近代化のために西洋から多くを学ぶべきとして捉えられていました。


明治時代は、江戸時代から続いた建築に関する封建的な規制がなくなり、資力に応じて住宅を造れるようになったため、資産家の施主の希望にそった美術・芸術的な建築が好まれました。

 

そして、日本人独自の擬洋風建築が生まれます。

 

しかし、関東大震災などで大きな被害を受けたことから、大正時代では日本独自の耐震構造技術への関心が高まりました。


そして、洋風の生活に憧れ、一部洋風を取り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになって行きます。

 

そんな中、藤井は、「日本の気候風土に適合した住宅とはどのような住宅か」、「日本の自然素材をこれからの住宅にいかに取り入れるか」といった、西洋化一辺倒の時代思潮のなかにあって、藤井は 日本の気候風土に適した住宅を、環境工学の視点から科学的に捉え直し、その在り方を追求しました。


藤井が聴竹居を完成させた年に著した『日本の住宅』には、第二回から第四回までの平面図や写真が掲載されています。

 

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『日本の住宅』:藤井厚二 1928(昭和3)年 岩波書店

 

「日本の住宅」という実験―風土をデザインした藤井厚二 (百の知恵双書)

第一回実験住宅は、竹中工務店に在籍中の1917(大正6)年29歳の時に、神戸に完成させています。


2階建ての住宅で母と住んでいましたが、翌年には出雲大社大宮司の娘の千家寿子と結婚して3人で暮らしています。


余談になりますが、2014(平成26)年に 高円宮典子様と結婚された千家国麿氏とは血縁になります。


国麿氏が84代宮司の直系長男にあたりますが、寿子さんは80代宮司・千家尊紀の庶子女でした。


寿子さんの姉妹は、毛利元忠夫人、北岡鶴松夫人、尾崎洵盛夫人などで子爵や男爵家に御嫁入しており、福山市の藤井家がどれだけ力を持ってたのか想像ができます。

 

第二回(平屋建て)以降の実験住宅は、京都帝国大学勤務途中に見つけた、京都大崎の土地12,000坪を購入して建てたものです。


第三回・第四回・第五回と2年後とに設計しています。

 

第三回実験住宅ですが、2階建てで第4回住宅とは形がよく似ていますが、建物自体の方角を変えたり、部屋割りを変えて風の流れを研究しています。

 

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第3回実験住宅:1922(大正11)年 

 

 第4回実験住宅は、平屋。こちらも本格的でしっかりと造られていましたが、藤井が移り住むことなく解体されています。

 

藤井は京都帝国大学で教授として教鞭をとっていながらも、個人宅の設計を数多く依頼されています。


そんな多忙な中で自邸に改良を加えながらどんどん設計していった様子からは、湧き上がるアイデアと、自邸ならではの自由に追及できる研究意欲と喜びがそこに見えるようです。

 

それでは、最後の第5回の実験住宅はどのようなものだったのでしょうか。

 

1928(昭和3)年に竹の音を聴く居として名づけられたのが「聴竹居」です。

 

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外観:右側が玄関 左側が縁側(サンルーム)

 

木造平屋建てで、敷地内には別に茶室があります。


土台は耐震性のためコンクリートで固め、耐風のために平屋建てにしました。


壁は、耐熱性に優れた土蔵壁を採用しており、木舞壁の上に土を塗り、漆喰で仕上げたもので、日本古来の伝統的な技術です。

 

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一般的な木舞壁の芯の状態

木舞壁とは直径5~12cmの竹を幅2cmくらいに割り、その竹を縦横に 配置して一つの目が3cmくらいの枡に縄で編みあげていきます。

それを芯にして、下地の泥に藁を切り込んだ荒壁を厚く塗り、漆喰などで仕上げた壁のことです。

 

また、外観からはわかりにくいですが、屋根は銅板葺きと、瓦葺の両方が使い分けられており、
太陽の角度から日照りを計算し、勾配と庇の長さを変えています。

 

まさに全く同じ場所ではないにせよ、その地に4度も建てたことが生かされていると言えます。


また印象的なのは、窓が大変多く、窓枠が焦げ茶色で周辺の木々に溶け込んでいるところです。


窓の上部と下部には、プライバシー保護のために磨りガラスを用いた細やかな気遣いが見えます。

 

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縁側:窓ガラスと桟の様子

 

縁側の角には柱がなく、本来壁と柱があるであろう部分には、窓が設置され外の景色が透けているようで大変美しい仕上がりとなっています。

 

 

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外観:縁側の角の様子

 

玄関は建物の東端にあり、全体の外観から想像するよりも可愛らしい洋風の印象の扉があります。

 

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玄関の扉

 

玄関を入るとすぐに居室となっていて、その居室を囲むように読書室、食事室、調理室、縁側、客室を配しており、建物全体の半分の部屋にあたります。

 

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聴竹居見取り図


玄関の目隠しとして、左右に板が配しており、その上部を1/4円がデザインされています。

 

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玄関:室内 左側


玄関のすぐ脇にある客室には、10㎡の広さですが、板張りで机と椅子があり、ソファーは作り付けになっています。


面白いことに、洋室でありながら、床の間があり照明は三角形のおしゃれなデザインです。
天井は、竹皮や杉皮の網代編みで、工芸的な美しさがあります。

 

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客室

 

居室には3畳ほどの畳の空間があり、床に対して30cmほどの段差で高くなっています。


現代でも似たような構造で、リビングの一角に和室を設けることが流行っていますね。


単独の和室はいらないけど、畳で足をのばす空間や、仏壇を置く部屋が欲しいといった理由で人気になっています。


一続きだと、床のゴミが和室に入りやすいことや、襖などがなくても空間を分けることができる小上がりはとても便利です。


80年以上前に、この居室が、リビングという概念と利便性が出来上がっていることに驚かされます。


また、この小上がりは椅子に座っている人と畳に直に座っている人の目線の高さが合うように計算されています。


まさに計算されつくした意匠と言えます。

 

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和室:居間とつながり小上がりになっています


この段差には夏に西風を取り入れる通気口が設けられています。


これにより、夏はクーラーのような役割をもち過ごしやすくなっており、この空気は各室の排気口を通じて屋根裏へ抜けるように設計されています。

 

空気が流れることにより、熱や湿気を交換することで、1年を通じて快適に過ごせるように考えられています。

 

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畳の下の通気口

 

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縁側の天井部分の通気口

 

また、食堂が特徴的で居室の隅に1段高くなっており、入口は1/4にカットした円形のアーチが見事です。


その幾何学的でありながら無駄を排除した姿や、食堂入口の壁にある藤井自身がデザインした時計のバランスが素晴らしいです。

 

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食堂:入口

 

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時計:藤井によりデザインされており、その下には作り付けの棚が配置されています。

時計は壁に埋め込まれています。

 

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居間の照明:藤井によりデザインされています。


読書室は書斎というより子供部屋でしょう。

 

藤井は3人の子供に恵まれています。

 

子供たちが本を読みながら楽しく過ごしている様子が目に浮かびます。

 

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読書室


縁側は、全長10mの窓ガラスをもつサンルームとなっています。


窓は、3方向に窓を設けており、居室に光を最大限に取り込めるようになっています。


天井は、客室と同じく網代編みとなっています。

 

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縁側:サンルームの様子

 

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サンルームの角を内側から

 

先に述べた通り、中央の居室がすべての起点となっており、いかに快適に居間で過ごせられるかを考え抜かれている様は、現代のリビング・インの原型と言えそうです。


リビング・インの短所である冷暖房効率の悪さが、この建物では徹底的に計算されており、1年快適に過ごせる工夫が細部まで考え抜かれています。


各部屋の間取り上部の欄間は障子にしており、必要に応じて開閉することで新鮮な空気を循環させることができます。

 

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欄間の様子:障子を開閉可能


この建物を一通り見ていくと、なんとなく以前訪れたような気持ちになります。


それは、ブルーノ・タウトの旧日向邸の地下室です。


設計が似ているというのではなく、目指している建物の方向性が似ていると言うのでしょうか。

 

旧日向別邸(ブルーノ・タウトの残した地下室) - 日本のすばらしい建築物

 

そう思っていたら、実はタウトがこの聴竹居を訪れていることがわかりました。


タウトの日記には、「極めて優雅な日本建築」と評しています。

 

藤井の実験住宅の完成形「聴竹居」には、亡くなるまでの10年間をこの家で過ごしています。

 

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藤井家家族写真:馬場福子所蔵 1930年代半ば頃

 

49歳という若さでこの世を去り生き急いだかのようですが、藤井がとことん納得して出来上がった集大成がここにあります。


ぜひ、一度は足をお運び頂き、日本家屋の素晴らしさを体感して頂けたらと思います。