こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
明治後期から大正13年まで一般に公開されていた私立図書館『南葵文庫』。
「ヨシ、私も図書館を造ろう」
そういって、徳川のお殿様が近代的な図書館造りに目覚めます。
それが、旧徳川頼倫邸です。
徳川家は将軍家の他に、紀州・尾張・水戸の徳川(徳川御三家)と3つありますが、徳川頼倫は紀州徳川家の第15代当主になります。
紀州徳川家は、第14代の茂承の時に明治維新を迎え、それまでの上屋敷や中屋敷を新政府に返納し、麻布の旧上杉家の跡地に入ります。
第14代茂承は江戸時代の人間だったため、第15代の頼倫から近代的な新しい感覚へと柔軟に変化して行きます。
徳川頼倫1907年頃
頼倫は、1896(明治29)年から2年間にイギリスのケンブリッジ留学し、欧米諸国視察を経て帰国しました。
この留学中には南方熊楠の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文と出会っていたそうです。
そのときに西欧の図書館制度に感銘を受けました。
南方熊楠:日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者で「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。
孫文:初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。
江戸時代の日本にも、もちろん「文庫」と呼ばれる施設はあったようですが、それはあくまで貴重な書籍を収蔵することで、閲覧について重視していませんでした。
そのため、「収蔵すること」から「閲覧する」ことへと、近代的な図書館への転機となります。
といっても、そもそも、徳川家が収集してきた書籍といえば、中国の古典や日本の和歌の本など、歴史書物で、普通の庶民が読めるものではありませんでした。
結局は、学者や文化人、紀州家の関係者に限られました。
しかし、徳川家に伝来してきた書籍を一般公開すること自体、大変意味のあることでした。
ただ、公開といっても、先に述べたように、特別な人しか利用しないことから、施設の性格は住宅に近いものとなりました。
図書館を建築するにあたり、住宅の蔵を書庫に、応接室を閲覧室に、使用人の詰所を受付にといった具合に住宅の基本から建築されました。
こういった事情で、1899(明治32)年、東京市麻布区飯倉町の邸内にヨーロッパ住宅のスタイルの『南葵文庫』(なんきぶんこ)が設立されました。
当時の南葵文庫
名前の由来ですが、紀州を南紀呼んだことからの南と徳川家の家紋葵から南葵(なんき)と名付けられました。
木骨瓦張りで、漆喰塗の2階建ての建物でした。
設計は石村金次郎と伝えられていますが、この石村という人物についてはよくわかっていません。
大正12年の関東大震災で、東京帝国大学の図書館が全焼にあい、それに心を痛めた頼倫は、その再建のため南葵文庫の書籍をそっくり寄贈してしまいます。
なんと、震災の翌月18日には、いち早く侯爵から寄贈の申し出がなされたとのことで、質量ともに帝国大学図書館本館蔵書の根幹をなしています。
紀州徳川家伝来の2万冊を始め、大変貴重な書物の数々、合計で9万6千冊が収められたそうです。
現在の東京大学総合図書館の閲覧室に入ると、壁の上のほうに南葵文庫と書かれた大きな額が掲げられています。
南葵文庫看板:徳川慶喜の揮毫によるものです
この徳川邸は、蔵書を東大に移した後、しばらく紀州徳川家の育英組織のオフィスなどに使われました。
そして、昭和8年、頼倫の息子の第16代頼貞の別邸として大磯に移されます。
壊されず、移築されたのには、基本が住宅風に作られていたのが幸いしたと言えます。
それが、今日まで生き残ることが出来た大きな理由でもあります。
徳川頼貞
長男の頼貞は、幼少期から音楽に興味を抱き、青年期に父親と同じケンブリッジ大学に留学中も、休暇期間になれば、有名な音楽家のコンサートに足を運びました。
そして、その後も外国を旅するたびに、当代一流の音楽家による演奏やオペラ上演に接していました。
音楽理論等を専門的に学ぶ中で、頼貞は建築家の知遇を得たことから音楽堂の建築に関心を持つようになりました。
日本には音楽専用のホールがなく、それを実現するのが自分の役目と感じ始めた頼貞は、父の許可と英国滞在中の家庭教師役でもあった小泉信三の助言をもとに早速行動を開始し、ピアノや和声を師事していたエドワード・ネイラーらとも相談しつつ、設計と設置するパイプオルガンを依頼しました。
1918(大正7)年、南葵音楽堂が完成します。
開堂の式典では、大隈重信が祝辞を述べました。
我が国における最初の公共音楽図書館の誕生です。
南葵楽堂外観
南葵楽堂は、ヴォーリズによる設計図面からその半地下部分を図書館とする計画であったことが明らかです。
音楽資料の収集は頼倫が設立した南葵文庫に、大正中期になって音楽部門が設けられたのが発端です。
教則本、練習曲、唱歌集、カミングズ・コレクションなどの楽譜や文献等で、公開当初閲覧に供されたのは、カミングズ・コレクションを除き、楽譜1264冊、音楽書473冊でした。
南葵楽堂図書部入口に掲出された表札(1924年頃)
そして、公開日からは少し遅れて、日本初のパイプオルガンがこの音楽堂に設置されました。
しかし、設置からわずか3年で関東大震災により致命的な被害を受けたこともあり、南葵文庫は先に述べた東京帝国大学(現東京大学)へ、そして、このパイプオルガンは東京音楽大学(現東京芸大)へ寄贈されることとなります。
南葵楽堂時期のパイプオルガン
図書館としての機能を果たさなくなった、邸宅は大磯に移されたあと、世界的音楽家たちが来日するとここに滞在し、この建物全体に音楽を響かせていました。
しかし、こうした幸せは長くは続きません。
もともと、豪遊で知られた人物であり、また自費で日本初のオルガン付音楽堂を建設、私財を注ぎ込んでその普及に努めたため、紀州徳川家の財政状態は次第にひっぱくし、昭和の初め頃から戦後にかけ、財産の処分を余儀なくされました。
それでも最後まで手元に残そうとしたのが、私財を投じて収集した音楽文庫と、代々受け継いできた楽器コレクションでした。
昭和18年に紀州徳川家から野村塵外荘の主・二代野村徳七にわたり、昭和50年代まで野村家の所有となります。
その後、老朽が進み取り壊しが検討されるますがそれを惜しんだ熱海伊豆山の温泉旅館「蓬莱旅館」の女将が購入し、旅館に繋がった現在地に移築してレストラン兼ホテルとなったのが昭和54年のことです。
そして、今は「ヴィラ・デル・ソル」という名の地中海料理のレストランとして使われています。
門扉は頼貞が建てた南葵楽堂のもので、大磯から熱海に移築されました
建物は海を前に山を背にした立地にあります。
イタリア風のデザインで、もともとは、イタリアのスタイルとして玄関は中央にありましたが、大磯への移築の際にずらされました。
それは、日本の美学として、玄関は中央よりもずらすのが望ましいとされていたためです。
正面
この建物は大磯に移築したときに、頼貞がヴィラ・デル・ソルと名付けました。
これは、イタリア語で「太陽の館」の意味だそうです。
玄関の扉の上には、その名が記されたステンドグラスが出迎えてくれます。
もしかしたら、目の前の相模湾を地中海に見立てて、ヨーロッパの田園に別邸を持ったような贅沢を味わいたかったのかもしれません。
玄関
ステンドグラス
兜とクワ形を三つ組み合わせた紋章を使っています。
八角形に張り出したサンルームは別邸とするために新設されました。
そして、外壁もその際に改められています。
サンルーフ:外観
室内に入ると、二回への階段に続く廊下があります。
天井はゆるやかにカーブしています。
廊下:徳川頼倫が書いた「南葵文庫」の額の複製が飾られています
1階には2間あり、南葵文庫開設当初は閲覧室、新館建設後は応接室として使われていました。
1階:応接室 現在はレセプション
1階:閲覧室 現在はサロン
寒水石(古生代の結晶質石灰岩)の前飾りのガスストーブ設置され、天井は檜格縁造りです。
暖炉風
サンルームから海が一望できます。
こちらは、大磯への移築の際に増設されました。
サンルーム:室内
2階にあがると、階段上の天井にはステンドグラスがはめ込まれています。
柔らかな明るい光が入ります。
階段上のステンドグラス
2階は旧会議室で、現在はレストランとなっています。
2階:レストラン
徳川の葵の紋は全く見つかりませんでしたが、2階のレストランのシャンデリアには葵の装飾が見られました。
シャンデリア全体
シャンデリア中央の金属への彫刻
徳川家の紋となった二葉葵
サンルームの上は、バルコニーになっていてすぐ海に面し、最高の眺めです。
バルコニー
この建物は、図書館から、音楽にあふれる別邸へ、その後レストランと、数奇な運命の西洋館と言えます。
何度も移築されながらも、大切に守られてきたのには、それだけの魅力があり、歴史的にも大変貴重な建物だったからでしょう。
現代では、紀州のお殿様が目指した自由な図書館と、本物の音楽が楽しめる最高の音楽ホールが身近にあります。
そのことに感謝しながら、おいしいフランス料理を楽しみ、由緒ある建物と海風を一度楽しんでみてはいかがでしょうか?