日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

皆さんは株式投資をされていますか?

 

現代社会で、株は大変影響力のある経済活動の一つとなっています。

 

株自体には興味がないという方でも、その動向によって私たちの暮らしに大きな影響を与えるため、新聞やニュースでも大きく取り扱われているので、必ず目にすることはあるでしょう。

 

特に、2008年のサブプライムショックや、近年では中国株の大暴落の印象が強く、株は怖いものだと思われている方もいらっしゃるかもしれません。

 

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しかし、株取引によって人生が大きく好転した人物もいます。

 

今回は、株取引で巨利を得たという福島浪蔵の自邸「鎌倉市長谷子ども会館」をご紹介します。

 

その建築物は、以前ご紹介した鎌倉文学館から長谷寺方面に歩いて行くと、長谷の住宅街の中に見えてくる古い洋館です。

 

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建物もさることながら、今回は明治時代の株式仲買人であった福島がどのように利益を上げたのか、この時代の株式と一緒に考えてみようと思います。

 

世界で最初の株式会社は「オランダ東インド株式会社」です。


似た名前でイギリス東インド会社がありますが、こちらとは異なります。


1602(慶長7)年と言いますから、日本では関ケ原の合戦のすぐあとです。


この時代、ヨーロッパでは大航海時代と呼ばれ、インドや東南アジアの特産品をヨーロッパへ運んでいました。


これらの特産品は、大変高値で取引されており、貧しい探検家たちが命懸けで一攫千金の旅に出かけました。


航海は大変危険で、天候不順による難破、海賊からの襲撃、疫病など大変リスクが高いものでしたが、成功すれば貧しく身分の低い者でも、名声と大金が転がり込むことから、勇気を持った若者たちは海へと憧れを持っていました。

 

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胡椒:アジアからヨーロッパへ持ち込むとダイヤモンドと交換できたそうです。


もちろん、それには船を造る代金や、船員の確保など大金が必要となります。


そのお金を出していたのが、パトロンと呼ばれる大金持ちです。


成功すれば、大金はそのパトロンが多くを独り占めすることが出来るため、ハイリターン・ハイリスクを求めて、探検費用などのすべての経費を出してくれました。


しかし、そんなに大金持ちも大勢いるわけではありません。


そのため、オランダ東インド株式会社は、一度にたくさんのお金を出すリスクは怖いが、少額なら出してもいいという、小金持ちたちを複数集めて、その金額を受け取った証拠に証書を発行しました。

 

これが株式・株主の始まりです。


もちろん、航海が成功したあかつきには、その利益は経費を除いで株主にも配分されました。


これにより、永続的に資金を集め、組織的な会社を維持することが出来たのです。

 

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オランダ東インド株式会社 アムスレルダム本社


また、日本初の株式会社は「第一国立銀行」で1873(明治6)年に設立されました。


名前に国立とありますが、実際には民間経営の銀行となり、しかも日本初の商業銀行です。


第一国立銀行は、その後、「帝国銀行」、「第一銀行」、「第一勧業銀行」、現在の「みずほ銀行」へと名前を変えて生き続けています。

 

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第一銀行本店:1930(昭和5)年の写真 西村好時設計

 

そして、1878(明治11)年には東京と大阪に証券取引所が開設されます。


今から135年ほど前のことです。


東京株式取引所が設立され、明治政府はこの市場経済に大変期待を持ったはずです。


日本で株の売買がスタートし、世界からみると日本は新興国として、高い経済成長が続いていました。


そして、このあと日本に劇的な2度の好景気(バブル)が起こります。


それはどちらも戦争が引き金でした。

 

一つは1894年(明治27)年の日清戦争です。


簡単に日清戦争について触れてみたいと思います。

日清戦争 (中公新書)

 

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日清戦争図


19世紀になると、ヨーロッパ諸国やロシアは、東南アジアの植民地化を押し進めました。


アジアの特産品を輸入するのではなく、すべて自分たちのものにしようと考えたのです。


その中でも、大きな領土を持つ「清」は大変魅力的なものでした。


そして、清の隣国である朝鮮半島にもその勢力は伸びてきました。


それは、日本にとっては脅威に他なりません。


清、朝鮮半島の次は日本が侵略されるはずだと恐れたのです。


そして少なくとも、清と日本との間にある朝鮮半島だけは自分たちの管理下に置きたいと思うようになります。


しかし、朝鮮半島の人々は減税と日本の進出を拒むため宗教活動家や農民が運動をおこし、それが全土へと広がる内乱となりました。


困った朝鮮半島政府は、清へ協力を依頼し内乱沈静化のための援軍を頼みましたが、日本にとってはそのまま朝鮮半島が清のものになってしまうのではないかと考え、「日本の公使館」を守るという口実で朝鮮に兵を出し、そのまま戦争へと発展してしまいました。


この戦争で、世界は度肝を抜かれます。


なんと『眠れる獅子』と呼ばれた清に日本が勝ってしまったのです。


もちろん列強国にとって予想もしていませんでした。


結局は日本の圧勝に終わり、下関条約が結ばれ、台湾の譲渡と遼東半島を割譲してもらえることとなりました。

 

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下関条約:調印の様子

 

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下関条約:調印 1895(明治28)年4月17日

 

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遼東半島:赤で囲ったところ Googlマップより

 

しかし、そんな美味しい話に納得できないのが列強の国々です。


みんなが欲しくて欲しくてたまらない土地です。


特に遼東半島はロシアの南下政策にとって重要な拠点であったため、日本に厳しく反発しました。


結局、下関条約からわずか数日後に、三国(ロシア、フランス、ドイツ)の外務省が日本を訪れて軍事的な圧力をかけ、その脅威を恐れた日本は素直に引き下がりました。


それが、世に言う「三国干渉」です。

 

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遼東還付条約:三国干渉により、遼東半島を返却。遼東還付条約に調印1895年11月8日

 

ただ、日本は勝利によって清から他にも大きなものを得ました。


まず、清から獲得した賠償金です。


銀2億両と言いますから、日本円に換算すると約3億円。


当時の日本の国家予算が約8,000万円くらいとも言われているので、2倍~3倍という大変な金額でした。


そして、この勝利によって日本は「金本位制」の基盤を獲得したと言われています。


これにより日本は念願の西洋諸国の仲間入りをついに果たすのです。

 

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<金本位制とは>


金を通貨価値の基準とするものです。


以前は銀も希少性や保存性に優れていたために、金と同じように扱われていましたが、なんと大銀山の発見により銀の産出量が増え、価値は大暴落してしまいました。


そのため、銀ではなく金のみが通貨の基準となったのです。

 

過去の記事『旧大阪造幣寮応接所』にて明治政府とお金について触れています。

 

ぜひお読みいただければ幸いです。

 

泉布観(旧大阪造幣寮応接所) - 日本のすばらしい建築物

 

あれ?っと疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれません。


銀2億両は銀であって、金ではないということに。


さすがの大国である清もそれだけの銀を保有していませんし、一度に銀を大量に買い付ければ、銀市場が高騰してしまいます。


そこで、金本位制の発祥地である英国の紙幣であるポンドを日本の賠償金の一部にあてることになりました。


またまた、あれ?って思われますよね。


ポンドは、もちろん「金」ではなく紙幣です。


しかし、当時の英国は金本位制を採用していたため、ポンド=金とみなす裏付けがありました。


そして、英国から輸入する際の決済に、そのままポンドで支払えることが出来るという利便性もあり、日本は賠償金をポンドで受けとったのです。


清はそのために英国で外国債券を発行し、ポンドを調達しました。


そして、その賠償金は日本でも清でもなく英国の銀行に預けられたのです。


これによって、日本は英国に莫大な金額を預けた顧客という優位な立場を得ることが出来ました。

 

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現在のイギリス・ポンド紙幣

 

この賠償金の使い道ですが、ほどんどが軍事力強化のために使われています。


軍事力を強くするには、材料になる鉄がたくさん必要で、製鉄所が必要となり、明治政府は八幡製鉄所(前身:官営製鉄所)を作ったのです。


そして、その原料となる鉄鉱石が日本ではあまりとれないために、中国やインドから商社が買い付けをし日本へどんどん運び入れました。


そして、空前の起業ブームが起こります。

 

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八幡製鉄所1901(明治34)年操業開始

 

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八幡製鉄所 煙突群

 

これが、日清戦争後に訪れたバブルの正体でした。


日本は船舶や鉄鋼などの重工業に力を入れ、徐々に力をつけ始めてきたところにまた戦争がやってきます。


それが、1904(明治37)年の日露戦争で、もう一つのバブルの引き金でした。

 

日露戦争が起こったきっかけですが、ついにロシアは朝鮮半島に南下しようとして、それを日本は恐れて戦争へと発展したということになっています。(現在では諸説あり真実は闇の中です。)


清は眠れる獅子として強い国だというイメージがあり、列強国は容易に手を出しませんでしたが、日本が勝ってしまったことで、「そんなには強くないらしい・・・」と他の列強国が清に攻め入ったのです。

 

日本もついにロシアの植民地になってしまうのではないかと恐れ、日本はロシアと戦争を起こしたという流れです。


しかし、当時日本には力強い後ろ盾がありました。


それは、ロシアの勢力拡大を嫌がっていた英国が日本と同盟を結んでくれたことです。


当時の英国と言えば世界最強と謳われていたので、日本にとって大変ありがたい同盟(日英同盟)でした。

 

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日英同盟風刺画:ロシア人がいている栗(韓国)を、英国人におだれられた日本人がとりに行く

 

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日英同盟を祝う絵葉書

 

こうなると、ロシアと戦争をするために必要なのはお金だけでした。

 

この時点で日本国内に残された手持ちの現金は、5,000万円ほどと言われています。


あのロシア帝国に、日本はたったそれだけの金額で戦争を挑もうとしたのには恐れ入ります。


もちろん戦争が出来る状態ではありません。


そのため、外貨建て国債の発行をし資金を調達せざるをえませんでした。


まず、最初に政府は日銀副総裁の高橋是清をアメリカに派遣します。

 

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当時の日銀副総裁 高橋是清

 

しかし、アメリカでの国債発行を目指しましたが一蹴されます。


誰でも小国日本が大国ロシアに勝つとは到底思えません。


日本に貸し付けや国債発行しても、敗戦により焦げ付くのは目に見えていました。


高橋は、アメリカを諦め、次は英国へと足を運びます。


当時の英国は先に述べた金本位制の世界の中心でポンドは基軸通貨の役割を担っていました。


そのため、国際的に活躍する投資家が大勢集まっており、現在のウォール街のようでした。


高橋はロンドンへの留学経験と日英同盟のおかげで一部の国債を英国の銀行が引き受けてくれるところまで漕ぎつきます。


しかし、そのまま日本へ帰ることは出来ません。


そんな時、高橋は友人の晩餐会で、アメリカで活躍するユダヤ人金融家ヤコブ・ヘンリー・シフと出会います。


これが、日本の運命を大きく左右しました。

 

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ヤコブ・ヘンリー・シフ

 

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英国で販売された日本国債

 

その晩餐会の席で、高橋は日本政府の考えやシフからの質問にきちんと答えたことで、シフが残りの国債を一手に引き受けてくれたのです。


しかし、後にこれはシフ個人の判断ではなく、「ロスチャイルド」の意向だったと言われています。


そして、シフと同じくロスチャイルドの傘下であったモルガン商会も多額の日本債券を購入しています。


シフとモルガンの2人が日本の債券を購入したということは、当時のロンドンでは大変な話題となっていたようです。


彼らは投資家の間では大変有名な人物で、彼らについていけば必ず儲かるということから、徐々に日本国債が買われ始めます。

 

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ロスチャイルドの紋章:ロスチャイルド家は18世紀後半ドイツのフランクフルトが発祥で、ユダヤ人のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し、彼の5人の息子がそれぞれ5か所の地で、さらに銀行業を拡大させたことから始まる大富豪です。世界の金融、石油、原子力、軍事、政治、メディアなど数多くを支配すると言われ、現在も、経済界・政治、国際社会にたいへん大きな力があると言われています。

 

ロスチャイルド家と最高のワイン―名門金融一族の権力、富、歴史


そして、ついに日本は戦費を捻出でき、日露戦争を起こすことになったのです。


日露戦争はふたを開けてみれば、近代兵器による大がかりな戦争でした。

 

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日露戦争図


そして、日露戦争の真っ只中、大事件が起こります。


それは、ロシアのバルチック艦隊が日本軍と間違えて英国の漁船らを攻撃してしまったのです。


英国のハル港は漁業が盛んで、50隻近い船が毎日出港していました。


バルチック戦艦が判断を誤った理由は、濃霧により視界が悪かったことと、日英同盟により英国海軍を恐れ神経が過敏になっていたことが原因と言われています。


そして、致命的なのは、バルチック艦隊が犠牲者を救助しようともせず立ち去ってしまったことでした。

 

これにより、特に日本に興味のなかった英国の世論が日本を応援する動きへと変わってきたのです。


これにより、日本の債券が買われる現象へとつながります。

 

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ロシア軍 バルチック艦隊

 

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「朝日」艦上より、バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊


そして、ついに「マカロフが死んだ」というニュースが世界に響き渡ります。


マカロフとはステパン・オーシポヴィチ・マカロフのことで、世界的に高名な軍人の一人です。


1904年(明治37年)東郷平八郎率いる日本艦隊と、マカロフ率いるロシア太平洋艦隊が一戦を交え、日本軍の魚雷によってマカロフが乗船していたペトロハバロフスク号沈没しました。


マカロフと500人もの船員が亡くなったと言います。


マカロフは「マカロフ爺さん」として大変人望があっただけに、大事件となります。

 

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ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ

 

写真 日露戦争 (ちくま学芸文庫)

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東郷平八郎

 

それにより、「日本が勝ちそうだ」という話が広がり、さらに日本債券が買われていったのです。


こうして債券が買われたことで、金利はどんどん下がっていきました。

 

このようにして、日本政府は軍事のためのお金はなんとか捻出出来ました。

 

そして、日本国内は日清戦争以上に激しいバブルに見舞われたのです。


戦争に関係する企業の株が買われ、東京株式取引所の株価は2年間で6倍以上になったというから驚きです。


戦争によって、2度のバブルを経験したことと、その時期の金融緩和による起業のおかげにより、億万長者が現れ「成金」という言葉まで生まれたほどでした。


今も昔も戦争と経済は切っても切れない関係ということですね。


しかし、矛盾のようですが、日露戦争によって日本は借金大国となってしまいます。


当時の日本の年間予算が3億円と言われていますが、この戦費はその6倍の18億円以上という信じられない支出だったのです。


先に述べたように、英国とアメリカからたくさんの資金を集め(借金をして)、かろうじて戦争に勝利したものの、ロシアからは一銭も賠償金は入ってはきませんでした。

 

それでも、多くの日本人は日露戦争の勝利に酔いしれていました。


1906(明治39)年は異常な株価高騰が続き、ついに1907(明治40)年の1月を迎えます。

 

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東京株式取引所

 

1月8日に大阪毎日新聞に「相場は、狂せり。」と株価の暴落を予見した『野村徳七』が警告していましたが、人々は無視して相場はさらに上がりました。


野村徳七(2代目)とは後の野村證券の創設者です。

相場は狂せり―野村証券創始者・野村徳七の生涯


実は野村は売りに全てを掛けており、破産の一歩手前であったとのことです。


そしてついに大暴落は始まりだします。


1月18日、あかぢ貯蓄銀行の新東株大量売りをきっかけに、相場の流れは停止します。


1月21日、ついに全面ガラ(暴落)が始まりました。


この相場で、野村は現在の価格で数百億円を稼ぎだし、これにより後に設立する野村證券の資金となったのです。

 

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野村徳七・2代目

 

1907(明治40)年の東京株式取引所の株価は、年初780円・年末91円、大阪株式取引所の株価は、年初775円・年末92円で、年初が最高株価でした。


そして、この年の日本の債務残高は22億円に達し、利息だけ支払っても国家予算が消滅するくらい酷いものでした。


そして夢から覚めたように、バブルは崩壊しました。


それから、明治が終わりを告げたのです。

 

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今回ご紹介する洋館の施主・福島浪蔵ですが、1860(万延元)年に江戸で生まれています。


福島自身の詳細はわかりませんが、1891(明治24)年に福島浪蔵商会を設立しています。 ※(明治42年という説もあります。)


福島浪蔵商会とは「山叶證券」の前進にあたる証券会社で、その後、合併により「新日本証券」、「新光証券」、最後は「みずほ証券」につながっているのは面白いものです。

 

当時の仲買人は相場師と呼ばれ、銀行家に比べ低くみられており、バクチ打ちのように思われていました。


福島は「兜町にこの人あり」といわれた相場師として有名であったと言います。


福島と同じ仲買人の仲間として、小池国三(山一証券の創始者)、神田鐳藏(紅葉屋証券、紅葉屋銀行)、そして先に述べた野村徳七(野村證券の創始者)がいました。

 

ちなみに、この3人はサンゾウ(3ぞう)と呼ばれており、政府からも一目置かれていたそうです。


彼らは日露戦争時の相場急騰に乗じて多くの株を売り抜け、巨万の富を築いたのです。

 

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小池国三(山一証券の創始者)

 

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神田鐳藏(紅葉屋証券、紅葉屋銀行)

 

この福島が1908年(明治41)年に自邸として建設した一部が、「旧諸戸邸」(現・鎌倉長谷子ども会館)です。


旧諸戸邸というのは、福島の没後に、1921(大正10)年に三重を拠点とする諸戸産業の二代目諸戸清六が所有したためです。


建設当時は、洋館の北側と東北側に和風棟も建てられており、 広大な敷地には庭園までもあったと言います。


その後、鎌倉市に寄贈されましたが、その頃には和風館は姿を消していたようです。


現在、建物は子ども会館、敷地が児童公園として使われています。

 

それでは、詳しく建物を見ていきましょう。


建物は木造2階建てで、寄棟造りの天然ストレート鱗形葺きの屋根です。


トラス構造の小屋組みとなっています。

 

 

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外観:正面


屋根まわり一つをとってみても、軒下のコーニスと呼ばれる部分にはネコの足のような柔らかな装飾や、隅にはパルメット文様という植物をイメージさせる装飾が施されています。

 

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軒下のコーニスとパルメット文様


全体的には、こじんまりとした小さな洋館ですが、細部にわたり手の込んだ装飾が多く施されているのが魅力と言えます。


残念なことに、設計者・施工者とも不明ですが、かなり力のある設計者によるものだと推測されます。

 

外観正面ですが、玄関ポーチと2階のバルコニーをつなぐ、円柱が印象的でギリシャ建築様式を取り入れています。


1階の円柱(ドリス式)にはメダリオン、2階の円柱(イオニア式)の頭にもデザイン性の高い装飾が施されています。

 

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1階円柱:ドリス式・・・円頭に装飾を持たないもの

 

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階円柱:イオニア式・・・円頭に渦巻きの装飾を持つもの

 

メダリオンを見た様子では、ギリシャ風よりも、ロココ調と評されることが多いようです。

 

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メダリオン:1階円柱部分のメダリオン

 

今までご紹介してきた建物にも、ギリシャ建築様式を思わせる円柱が用いられた建物がございました。


ぜひ足をお運び頂けたらと思います。

 

清泉女子大学本館 - 日本のすばらしい建築物

 

泉布観(旧大阪造幣寮応接所) - 日本のすばらしい建築物

 

2階のバルコニーは特に素晴らしく、手すりのアイアンワークは円をたくさん重ねたような独特のデザインで美しいものです。

 

残念なことに、かなり錆び付いており、そのせいで全体的に古く傷んだような印象を受けてしまいます。

 

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バルコニーのアイアンワーク

 

2階の軒下、バルコニーのアイアンワーク、1階と2階をつなぐ部分、玄関ポーチの手すり部分、基礎にあたる部分とすべてにおいて角をなくし、同じ角度の丸みを持たせる意匠で大変手が込んでいます。


これにより、正面と側面が流れるようにつながっており、一層の優美さを演出しています。

 

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丁寧に仕上げられた丸いカーブ

 

側面には上げ下げ窓があり、その上部にペディメントを備えているのはとても面白い意匠です。


色も屋根と同じく淡いグリーンとなっています。


上げ下げ窓には、それぞれに観音開きの雨戸がついています。

 

雨戸は木で作られているため、痛みが目立ち少し残念ではあります。

 

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側面の上げ下げ窓:2階には窓一つ一つにペディメントが施されています。

 

中央玄関の上部には、アイアンワークの装飾が施されており、窓枠と同じような薄グリーン色の枠で囲まれています。

 

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玄関上部のアイアンワーク:レースのように繊細なアイアンワーク。

 

内部は、非公開となっていますが、天井には漆喰彫刻、紫檀と黒檀の寄せ木細工で作られた床といった、繊細な装飾が随所に施されいるとのことです。

 

この規模の建物にはありえないくらい、華美な装飾を詰め込んだ豪華で贅をつくした洋館と言えます。

 

実は、この建物は関東大震災を無事に乗り越えることが出来た数少ない一つです。


鎌倉も大変な被害が出たため、この建物は、震災時の救療本部として使われたと言います。


現在もずっと同じ場所で地域の子どもたちのために活躍し続けているのです。

 

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鎌倉地震によって、鎌倉大仏の台座が傾き、側の建物が崩壊しています。

 

福島のように株で大当たりするという人生はラッキーなように思いますが、すべては株を売り抜けるタイミングを見抜いた実力でした。


その反面、多くの人々が戦争で亡くなり、株で全てを失い人生が狂った人もたくさんいたという事実も忘れてはいけないでしょう。


様々な時代背景を思いながら、小田原文学館と一緒に旧諸戸邸(鎌倉市長谷子ども会館)まで足をお運び頂けたらと思います。