こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
今回のすばらしい建築物は、「東京都庭園美術館」です。
東京都庭園美術館は、東京都港区白金台にある都立美術館で旧皇族朝香宮の邸宅として1933年(昭和8年)に建てられた建物をそのまま美術館として公開したものです。
1920~30年代にヨーロッパで一世を風靡した「アール・デコ様式」を取り入れた建物で知られます。
アール・デコ建築としては、1930年頃のニューヨークの摩天楼(クライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンターなど)が有名であり、一世を風靡しました。
※クライスラービル:自動車メーカー・クライスラーのビルであり、各所に自動車をモチーフとした装飾が施されている。
※エンパイア・ステート・ビルディング:「エンパイア・ステート(帝国州)」はニューヨーク州の異名。
大富豪のジョン・D・ロックフェラーによって1930年から建設された。前年に起きた大恐慌の影響でその後建築計画が変更され、全ての建築物が完成したのは9年後の1939年であった。
しかし、大恐慌によりアメリカ経済が力を失ってゆくと同時に流行は去りました。
東京都庭園美術館の敷地内には緑溢れる庭園もあり、自然と建物と美術作品があわせて楽しめます。
この森は、江戸時代には高松藩松平家の下屋敷(別邸)があったところで、戦前は人の出入りが厳重に管理される御料地でした。
戦後は旧白金御料地として国の天然記念物および史跡に指定され、手厚く保護されたおかげで、都心では珍しく、昔ながらの良好な自然が残されてきました。
この緑地の南辺の一角に、昭和8年から同22年まで朝香宮鳩彦王(1887ー1981)が家族と暮らした邸宅が東京都庭園美術館となって、さまざまな展覧会が開催されています。
旧朝香邸は、たしかに洋館には違いないのですが戦前に建てられたほかの洋館とは一見して異なる姿をしていて、アール・デコの館として評されることも多いです。
アール・デコとは、装飾芸術を目指すフランス語「アール・デコラティフ」を略した言葉で、20世紀の初めにフランスやアメリカをはじめ、世界各国で流行した装飾様式を指します。
朝香宮鳩彦王は、戦前に存続した14宮家のうち5宮家を占め、最大勢力を誇った久邇宮朝彦親王の息子たちの一人で、明治39年、19歳のときに立家を認められて朝香宮を名乗りました。
【朝香宮鳩彦王】
宮家を名乗った兄弟は、久邇宮邦彦王、賀陽宮邦憲王、梨本宮守正王、そして終戦直後に首相を務めた東久邇宮稔彦王です。
鳩彦王は、皇族男子のしきたりに従って軍のエリートコースを邁進し、昭和20年の終戦まで陸軍で幹部を務めた生え抜きの軍人です。
戦後、GHQの命令により同年10月14日に皇籍離脱、後は、朝香宮邸を外務省に貸し出し(これは外務大臣公邸 として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称されていました)、自身は熱海の別荘に隠棲してゴルフ三昧を嗜む日々を送ったそうです。(「ゴルフの宮様」として知られるようになりました。)
鳩彦王の人生を振り返ると、どことなく天真爛漫な雰囲気が漂っていて、職業軍人の厳めしいイメージとはだいぶ異なっています。
この邸宅にしても、その誕生をひもといてみると、鳩彦王の人間味あふれた情熱的な一面が見えてきます。
大正11年、鳩彦王は皇族軍人の常として海外に留学し、翌年の春、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去、同乗していた鳩彦王は重傷を負う不幸に見舞われてしまいます。
しかし、結果的には、この事故によるフランスでの療養生活と滞在期間の延長が、鳩彦王がフランス文化とじっくり向き合う絶好の機会となりました。
加えて、事故を受けて急遽渡仏した妻、允子妃の語学力と社交性が鳩彦王の仏国滞在をより充実したものにしました。
明治天皇第八皇女「鳩彦王妃允子内親王」
パリ社交界での交流を通じて、芸術をみる目を肥やした鳩彦王夫妻が帰国間近の大正14年に招かれたのが、現代装飾美術・産業美術国際博覧会、通称アール・デコ博でした。
ここで目のあたりにした工芸品や服飾品、建築の最先端のデザインにすっかり魅了された夫妻は、帰国早々、結婚祝いとして明治天皇から下賜されていた白金御料地に、国内に向いを見ないアール・デコの新築位を建設しようと決意したのです。
新郎の建設計画は、昭和4年に宮内省が行う宮家の新築工事として認められ、同6年に工事が始まり、同8年に完成しました。
鉄筋コンクリート造りの2階建て(一部3階建て)で、地価1階があり、延べ床面積は約2000㎡です。
宮家の邸宅の規模としては標準的なものです。
アール・デコの建築を知っている人が聞けば、四角や三角、丸といった抽象的な形を自由自在に組み合わせたり、植物や動物をデフォルメしたりする、派手なデザインを想像するでしょう。
けれども、朝香宮邸を訪れて、初めて目にうつる邸宅の正面は「形態は機能に準ずる」を旨とするモダニズム建築をほうふつとさせる飾り気のない、どちらかといえば地味な姿をしています。
朝香宮邸自慢の庭園をめぐりながら違う角度から眺めてみても、その印象に大きな違いはありません。
ところが、玄関からなかに一歩足を踏み入れると、それまでの印象が一変するほど鮮やかな空間が広がります。
もしかしたら、外観はあまりにあっさりしているので、建築に関心がある人を除けば、なかに入るまでとくに何の印象も抱かないかもしれません。
玄関は、床がカラフルなモザイクタイルで飾られ、正面には奥の大広間を仕切る大きな扉に取りつけられた4体の流麗なガラスの女性像が出迎えます。
大広間に進むと、正面に鏡と大理石を組み合わせたモダンな暖炉があります。
玄関から入った大広間の左側、庭園に面して並ぶ次室、大客室、大食堂の3部屋もまた圧巻です。
真ん中に巨大な花のつぼみのような妖艶な香水塔が鎮座する次室は、床がモザイクタイル、壁はプラチナ箔を練りこんだ艶やかな朱色の人造石で仕上げられ、どことなく古代ローマのヴィラを思いおこさせます。
続く大客室は、上質のカエデ材をふんだんに使い、天井の縁や柱上の飾りなどの細部に古代西洋建築を抽象化したデザインが用いられます。エッチング・ガラスに花模様を描いた扉はとくに斬新で、近未来的と表現してもおかしくありません。
1933年竣工当時の大客室
一番奥の大食堂では、魚をあしらったグリルをもつ暖炉や幻想的な彩色の油絵、シャンデリアの果物レリーフ、壁の石膏の花柄と果物のレリーフといった具合に、食事を連想させる有機的なモチーフを大胆に使ったデザインに目を奪われます。
2階は居住用のスペースで、一貫して品のよいアール・デコでまとめられているものの、1階の接客スペースと比べるとやや見劣りがしてしまいます。
妃殿下居間
殿下書斎
ただし、朝香宮邸のなかでも1階の接客スペースが際立って見えるのにはちゃんとわけがあります。
朝香宮邸の設計は、ほかの宮家の邸宅と同様、宮内省内匠寮が担当しまし
たが、接客スペースの内装は朝香宮夫妻の強い意向でパリに外注してつくられたものなのです。
接客スペースの内装を担当したのは、フランス人装飾作家のアンリ・ラパン(1873-1939)。
主要な7室の内装を担当した画家、インテリア・デザイナーのアンリ・ラパン(1873-1939)(写真左)と、これに参加したガラス工芸作家のルネ・ラリック(1860-1945)(写真右)
装飾美術家協会の副会長としてアール・デコ博の開催に尽力し、同博でさまざまなパビリオンのインテリアデザインも手がけました。
朝香宮夫妻のフランスでの交流のたまものでしょう。
設計の依頼を快諾したラパンは、ガラス工芸のルネ・ラリックや彫刻家のイヴォン・レオン・ブランシュなどアール・デコ博を聖公に導いた腕利きの作家に協力を得て、朝香宮夫妻がパリで見たアール・デコ様式を再現してみせました。
当時、宮家の邸宅は宮内省の予算が許す範囲で建設するのが決まりでしたが、外注による建築費の増額分は朝香宮家が私費でまかなったそうです。
このように朝香宮邸は、建て主の人生と情熱があって初めて実現できた、世界的にも珍しい、まじり気のないアール・デコ建築といえます。