こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
今回のすばらしい建築物は、「清泉女子大学本館」です。
現在の東五反田の通称「島津山」と呼ばれる高台に、バロックの美しいベランダをもつ旧島津忠重邸である清泉女子大学本館があります。
明治6年、伊達藩の下屋敷だったところを、桜田門に下屋敷のあった旧島津藩の島津公爵が手に入れ、本邸として使用され大正6年には現在の洋館建物が完工しました。
現在は清泉女子大学のキャンパスとなり、島津邸も大学の本館として利用されています。
当時の建て主である島津忠重(1886ー1968)は、最後の薩摩藩主、島津忠義の長男として明治19年に鹿児島県に生まれました。
父の死去にともない13歳で家督を相続、公爵を継ぎました。
薩摩藩主、島津忠義
明治39年に160年近く経過した建物は老朽化したため建て替えることとなり、島津家と関係のあった英国大使館の推薦もあり、ジョサイア・コンドル(1852 ー1920)が手がけました。
ジョサイア・コンドル
建物のデザインは、忠重が英国風の生活様式の訓練を受けていたこともあって、英国風の洋館に決定したそうです。
当時は2万8000坪の広大な敷地でした。
ピーク時には200名を超える使用人がいたそうですが、そんな島津家も昭和初期の金融恐慌のあおりで手放すこととなり、昭和4(1929)年には敷地を8千余坪を残し、周辺部を売却しました。
その後第二次世界大戦の苛烈化に伴い大邸宅の維持が困難となり、日本銀行に売却し、戦後はGHQに接収され29年まで駐留軍将校の宿舎として使用されてきました。
その後昭和36年清泉女子大学に売却され、校舎として使われ現在に至っています。
正面は、中央に石造りの玄関ポーチを張り出し、外壁は白タイル貼りで隅は石積み、窓まわりや2階の付柱は石張りで重厚に見せています。
この建物で使われている白煉瓦は伊豆の真鶴から取り寄せたもので、2階のバルコニーの床で使われているタイルも同じく真鶴産の安山岩です。
しつこいまでの豪奢さを感じさせないのは、白タイル貼りの壁が清楚で明るい印象をもたらすからでしょう。
庭から見る外観は、ほぼ左右対称の端正な姿です。
列柱の曲線が美しい明るい開放的なデザインとなっています。
注目すべきは円柱で1階と2階とでは様式が異なります。
1階は柱頭に装飾を持たないドリス風のトスカナ式
2階は柱頭に渦巻き状の装飾を持つイ オニア式
1階室内の見所は、玄関のステンドグラスです。
緩やかな曲線を描いたアール・ヌーヴォー調の デザインで、頂部には丸に十の字の島津家の家紋が入ります。
室内の装飾も、アール・ヌーヴォー調のデザインで、階段は中央から踊り場を経て左右に分かれて上がるバロック的な演出です。
中央の客室は、ベランダに向かって壁が円弧状に突出し、天井も円弧にあわせて楕円状の縁で装飾され、ベランダ側に3連の半円アーチ窓が並ぶ印象的な部屋です。
ベランダに面した 南側の窓はアールになっているうえに、驚くことにガラス自体もアールがついてます。
大食堂は現在礼拝堂として使われています。
スワンネックのペディメントをのせ、脇に木羽目板が、大食堂の面影を偲ばせています。
2階は、プライベート空間で、ホール周囲に公爵、夫人、子どもの居室および夫妻寝室などがあります。
2階の階段状ホール
内装は1階とは異なり、暖炉まわりや天井の装飾も簡素です。
しかし、庭に面した夫人居室は、この建物で最も眺めの良い部屋で、白大理石の暖炉を備え、カーテンボックスや天井も装飾豊かに設けられています。
建築後、間もなく百年を迎えようとしている島津邸は、今も学生たちの講義や応接室として使われています。
優れた建築の価値を身近に感じる学生生活は、かけがえのない経験になることでしょう。