日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

びわ湖大津館(旧琵琶湖ホテル)

日本一大きな湖琵琶湖。


昔から琵琶湖沿いはリゾート開発が盛んで、多くの著名人などが大津のあたりに住んでいます。

 

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琵琶湖

 

そのようなことから、大津市は日本一世帯所得額が高い市としてその名をとどろかせています。

 

現在、そんな大津の琵琶湖沿いは、高層マンションが立ち並びながらも物件、賃貸の価格がリーズナブルなため、京都で勤務する方を中心として人気の高い居住地となっています。

 

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大津市

 

しかし、そのような都市開発が進む、大津の琵琶湖沿いに、外観は明らかに「和風」ながら、どこか近代建築を思わせる建物があります。

 

それが今回ご紹介する『びわ湖大津館(旧琵琶湖ホテル)』です。

 

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正面から見れば一目瞭然ですが、いかにも外国人好みの桃山風な外観のこの建物。


実際、昭和初期のころから、日本を代表する「外国人客の誘致」のために建てられた国際観光ホテルなのです。

 

そして、実はこの『びわ湖大津館(旧琵琶湖ホテル)』こそが、琵琶湖リゾート開発の先駆け的存在だったのです。


日本では、1930(昭和5)年、鉄道省に国際観光局が新設され外客の誘致を担当することになりました。


その中でも特に重要視されたのが、国際観光ホテルの建設でした。

 

国際観光ホテルとは、国際観光局の斡旋で大蔵省預金部から低利資金を融資して建てられたホテルのことです。


この運動により、日本各地の海岸部や山岳部などの自然豊かなそれでいて美しい土地に良質のホテルの建設がすすめられました。


例えば、最近映画化された「君の名は」の元の舞台となったと、話題の長崎県雲仙市にある、雲仙観光ホテルもまさにこの国際観光ホテルです。


実際に映画で使われた場所は広島県の尾道市ですが。

 

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「君の名は」2016年に公開 新海誠監督による長編アニメーション映画

 

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雲仙観光ホテル

 

この雲仙観光ホテルですが、国から融資を受けた長崎県は、県選出の代議士で大阪の堂ビルホテル経営実績がある株式会社堂島ビルヂング社長・橋本喜造に建設と運営を依頼しています。

 

そして、1935(昭和10)年10月10日に国有地及び県有地約3200坪の敷地に雲仙観光ホテルが誕生しています。


さらに、雲仙国立公園が日本で初めての国立公園として指定されたのが1934(昭和9)年で、これらのことから雲仙市はそのころから急激に開発がすすめられ始めたのでした。

 

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雲仙国立公園

 

しかし、戦争へ突入した日本で、軍の徴用施設となった雲仙観光ホテルは、戦後引き続き駐留米軍に接収され休暇ホテルとして使用されるようになりました。


その後、1950(昭和25)年に接収が解除され、営業を再開し、同年、国際観光整備法に基づき、政府登録ホテル(政府登録国際観光旅館)に登録されています。


2003(平成15)年、国の登録有形文化財となったのを機に「新しくノスタルジア」というコンセプトのもと、大リニューアルを行いました。

 

開業当時のホテルの姿に戻すべく、客室の全面リニューアルと浴場やダイニング、廊下を改修し、開業時あった図書室・撞球室、映写室を再現したようです。

 

2007(平成19)年11月には、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されています。


このように、国際観光ホテルとは、政府が進んで国家レベルで開発を行い、その時代の最高峰の技術を駆使している建築物なので、どれもが当時の超一流の建築物となっています。


ちなみにですが、国際観光ホテルは全部で15か所です。


さて、琵琶湖ホテルに話を戻しましょう。


実は滋賀県では当時、上述したような国の動きとは別に1928(昭和3)年ごろから琵琶湖畔にホテルを建設する計画が生じていました。


しかし、資金面の問題からこの計画は保留となっていまいた。

 

そこに降ってきた国際観光ホテルの話に食いつき、計画を続行させることにしました。


さらに、大津市はこれに合わせて、1931(昭和6)年に「遊覧都市計画」という計画を打ち出し、琵琶湖をリゾート開発する構想を練り始めました。


その集客の中心施設となったのが、まさに「琵琶湖ホテル」だったのです。


このようにして1つの建築物としてではなく、街全体の開発計画を同時に構想することによって1933(昭和8)年に琵琶湖ホテルは国際観光ホテルとしての審査に合格しました。


大蔵省から得た融資額は30万円でした。

 

敷地は大津市の柳ヶ崎(琵琶湖北西側、大津市の琵琶湖に面する辺り)が選ばれ、設計者には早稲田大学教授で、東京美術学校(現・東京芸術大学美術部)教授でもあった岡田信一郎の事務所が選ばれました。

 

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岡田信一郎

 

岡田は東京で生まれ、1906(明治39)年に東京帝国大学を卒業しました。


上述した学校の教授を務めながら、自身の事務所も持ち、洋式建築の意匠を得意とし、西洋風の古典主義や和風の意匠などを自在に使い分けた人物です。


主な作品としては、大阪中央公会堂、大阪高島屋、歌舞伎座、旧鳩山一郎邸などがあります。

 

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大阪中央公会堂

 

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大阪高島屋

 

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歌舞伎座

 

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旧鳩山一郎邸


また、妻として芸妓である萬龍をめとるといったことからも、金銭面の充実、そして建築以外の芸術・芸能への深い理解もあった人物だったと考えられています。


しかし、琵琶湖ホテルの建築計画が生じた1931(昭和6)年ごろから、病床に伏すことが多くなり、この琵琶湖ホテルの設計に存分に従事したわけではありませんでした。


実際の設計は、信一郎の実弟で同事務所に在籍していた岡田捷五郎が担当し、1934(昭和9)年にホテルは竣工しました。


総工費は46万5千円でした。


信一郎は1932(昭和7)年、このホテルを見の完成を見ぬまま亡くなりました。


弟の捷五郎は、1920(大正9)年に東京美術学校を卒業し、卒業後、軍役を経て、信一郎が歌舞伎座を建設中の時から事務所を手伝っていました。

 

その後、ヨーロッパやアメリカを外遊し、海外で多くの知識を身に付け、1932(昭和7)年に兄が亡くなってから事務所の運営と琵琶湖ホテルの設計を引き継ぎました。


また、明治生命館の建築も同時に引き継ぎ、こちらも完成させています。

 

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明治生命館

 

さて、建築としての琵琶湖ホテルは、鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階建ての建物です。

 

両翼に入母屋破風、玄関ポーチには唐破風を組み合わせたいわゆる「桃山風」の意匠を用い、これは岡田信一郎作の歌舞伎座を彷彿とさせます。

 

1階部分だけはフラットな平面ですが、2階以上は採光と眺望を考慮してバルコニーを回した凹型の平面となっています。


また、玄関ポーチの蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)などの装飾も見事です。

 

正面玄関は南側で、琵琶湖に面しています。

 

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外観正面

 

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正面玄関

 

建物の内観に入ると和風な外観からは想像もつかないほど重厚な洋風に変わります。

 

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1階:ロビー

 

1階は正方形平面で中央にロビーや宴会場があります。


玄関ホールには重厚な大階段が設置されており、装飾を排除したモダンな手すりと仏閣風の照明が見事に融合しています。


屋内から南側を見ると、琵琶湖が望めます。


垂木を備えた深い庇(ひさし)が風景を切り取り、建物と琵琶湖が調和しています。


そして、南側にはさらに喫茶室もあります。


現在はカフェとして活用されていますが、大きなガラス窓が巡らされ、明るく開放的な造りとなっています。

 

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カフェ

 

細かい点では、受付に設置されたキーボックスなども見どころの一つです。


現在でも、ホテル開業当時から使われた木製のキーボックスを使用しており、アンティーク感が建物の意匠に見事に調和しています。

 

また、現在では物置になっているのがかつての両替所で、格子が真鍮でできています。

 

ロビーのシャンデリアはとてもシンプルですが、奥深く、大きな置時計もその存在感を放っています。

 

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キーボックス

 

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旧両替所

 

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シャンデリア

 

2・3階では客室がコの字型に並び、1階の宴会場上部には琵琶湖が全面に見える巨大なバルコニーが設置されています。

 

琵琶湖からの景観として違和感のない和風の意匠を備えつつ、屋内から景色を楽しむための展望機能を備えた近代的な建物となっています。

 

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バルコニーから琵琶湖


現在、この建物は「びわ湖大津館」として、様々な用途に応じて貸館事業を行っています。


先に挙げた結婚式などもそうですし、宴会や打ち合わせなど様々です。

 

そのために利用されているのが、当時の食堂と客室です。

 

客室は会議室として利用され、食堂は多目的ホールとなっています。


そして、この多目的ホールの正面上部には「謎の小部屋」と呼ばれる小さな部屋があります。


この小部屋は当時は楽器演奏のために利用されたとの説もありますが、実際のところ現在では完全に謎のようです。

 

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多目的ホール

 

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謎の小部屋

 

また、バルコニーをはじめとして、壁や床に置多くのタイルが見受けられます。


壁と床でデザインが違うのですが、これらが見事に調和し、建物全体の印象をぐっと引き締めているようです。

 

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タイル

 

そして、和風の意匠ならば、本来木造になるのが一般的ですが、鉄筋コンクリート造として建設されている点もこの建物の面白い点の一つです。


実はここにも当時の最先端技術が隠されています。

 

日本の伝統的木造と鉄筋コンクリートのラーメン構造(梁と柱の一体化した構造)は、柱と梁を組み合わせる点で共通しています。


とはいえ、両者のプロポーションや寸法は本来異なり、琵琶湖ホテルでは、大小の柱や梁を重ね、柱上部に組物を配置することで鉄筋コンクリート造の表現に木造の繊細さを加えた、細やかな陰影を造り出しています。

 

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天井の様子

 

こうした巧みで大胆な岡田兄弟の設計と、その設計を実際に再現してしまう当時の日本の建設技術の高さが表れている建物といっても過言はないでしょう。


びわ湖大津館として貸館事業を行う現在では、平成10年に浜大津に移築されています。

 

ホテルは、当時のままで内装などが残っているため、それを懐かしむ方も多いようです。


また、びわ湖大津館の横にはイングリッシュガーデンがあり、冬の休園時を除いて季節の花を楽しめ、冬場にはイルミネーションスポットとしても人気があります。

 

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イングリッシュガーデン

 

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イルミネーション

 

さらに、8月には琵琶湖花火大会のために展望席なども用意され、食事を楽しみながら花火を楽しむこともできるようになっています。

 

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琵琶湖花火大会

 

建築として当時の最先端の技術と設計者を使い、さらに1つの建物としての価値ではなく、街全体のリゾート化計画の先駆け的な存在であるこのびわ湖大津館は、今でも多くの人に愛され続ける、大津市の誇りでもあります。


もし、琵琶湖あたりに来ることがあれば一度この建物を見に来られるのもおすすめです。