こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。
突然ですが、名演説と聞いて、誰を思い浮かびますますか。
リンカーン、ケネディ、キング牧師などは大変有名な演説として語り継がれています。
リンカーン:エイブラハム・リンカーン大統領が、「人民の、人民による人民のための政治」というフレーズで有名な「ゲティスバーグ演説」を行った様子。
それでは、日本では誰を思いつくでしょうか。
選挙の頃になると、せわしなく選挙演説のマイクの声が聞こえてきます。
有権者にマニフェスト(政権公約)を説明し、清き一票を得ようと奮闘しています。
最近では、日本の首相として初めて安倍首相が米議会上下両院合同会議で演説し、話題になりました。
日本における『演説』そして『討論』の大切さをいち早く気づき、その教育を始めたのは、実は何を隠そう、かの有名な福澤諭吉なのです。
慶應義塾大学の歴史ある三田キャンパスには、日本初の『演説』のための会館「三田演説館」が存在します。
そこはまさに、『演説』の発祥の地なのです。
昔の日本では、口頭で意見を言う習慣を持っていませんでした。
そのため、自分の意見を他に示し賛同を得るには、書面にしたためて同意を得るほかなかったのです。
そこに、福澤諭吉は日本を近代国家にするために必要な『演説』を、社会教育の一方法として根付かせる教育を始めました。
福澤諭吉は武士であり、蘭学者、啓蒙思想家、教育者です。
現在使われている一万円の「顔」としてもなじみの深い人物ですね。
また、「学問のすゝめ」「文明論之概略」の著者で、現在の慶応義塾大学の設立者として有名でもあります。
福澤諭吉
演説をスピーチ、弁論・討論をディベートと訳したのも福澤で、「学問のすゝめ」の十二編に「演説」とは英語にて「スピイチ」と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり。」述べています。
福沢諭吉旧居記念館内に展示されている『学問のすゝめ』初版本
そもそも、「学問のすゝめ」という本ですが、最初は福沢の故郷である中津の友人のために作ったものです。
その内容から、多くの人が読めるように出版を勧められ、1872(明治5)年に慶応義塾の活字版を使って初版を出版、十七版まで作られました。
特に第一編の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉が有名で独り歩きしていますが、決して人間平等を謳ったものではありません。
誤解されがちですが、実はこの続きがあります。
学問のすすめ第一編
要約すると、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉がありますが、その言葉どおり、みな同じならば、仕事や身分に違いが出ないはずです。
それなのに、現実には地位、身分に違いがあるのはなぜでしょう。
その理由は、学問を学んだか、学ばなかったかによるものです。
地位や身分の高い人は、その地位にふさわしい仕事をするためにも、その仕事について学んでいます。
自分にはこの人のマネは到底出来ないと思えても、自分より優れている人の根底にあるのは「学問の力」に行きつき、あらかじめ決まっているわけではないのです。
といった内容につながります。
つまり17編にわたって、表題の通り、「学問を学ぶこと」を勧めている本なのです。
ちなみに『演説』という表記は福澤諭吉と慶應義塾関係者による造語です。
1897(明治30)年に刊行された「福澤全集緒言」の中で、福澤の出身地である旧中津藩(大分県中津)で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、「舌」という言葉があまりにも俗なので「説」という字に改めたの述べています。
福澤全集緒言:1898(明治31)年版「福沢全集」(全五巻、時事新報社刊) の第一巻の巻頭に掲げるために執筆されたもので、著訳者としての福沢の自伝ともいうべきもの。
福沢の生涯を知る上に欠くべからざる重要な文献です。
そもそも、『演説』自体が福澤の発明ではありません。
しかし、この時代に、これからの日本の未来にとって『演説』がどれだけ重要かを気づいていたこと、そして、きちんと演説(スピイチ)と討論(ディベート)が出来る若い人材を育てようと教育に組み込んでいったことの功績は計り知れないものがあります。
福澤諭吉と『演説』との最初のきっかけは『会議弁』というものでした。
1873(明治6)年の春から夏にかけての頃に、小幡篤次郎と小泉信吉が共著で書いた原書を福澤や慶應義塾の人々が目にしたことから始まります。
会議弁:演説の方法の紹介で、具体的に会議を起こすための集会の手続きの手引き書にあたります。
小幡篤次郎:明治時代の政治家で、教育者、思想家です。後に第3代慶應義塾塾長になります。
小泉信吉:後に第2代慶應義塾塾長、横浜正金銀行支配人になります。
この原書に従って、福澤を始め、慶応義塾の有志が週に2回ほど福澤の私邸や教員宅に集まり、ある時はテーマを宿題として与え、ある時はその場で決めて持論を述べ合ったり、別々の意見に別れて「可決」「否決」の議論するなどして訓練が重ねられ、翌年の1874(明治7)年に、正式に『会議弁』が刊行されます。
そして、ついに6月には三田演説会(14名)が組織されました。
三田演説会
演説会や討論会が毎週土曜日に、塾内にある出版社の会議室や塾内の食堂などで開催されたそうです。
当初は小人数の会員制で、スピーチとディベートの練習が始められましたが、「演説法を普及させるためには、世間一般に公開し、多人数の聴衆を収容する会堂が必要である」ということで、演説館の建設の案が出ます。
それが、今回ご紹介する「三田演説館」です。
建築費を福澤が全額負担し1875(明治8)年5月1日に開館しました。
演説を始めた当初は、やはり人前で話す恥ずかしさもあり、面白いことに「決して笑い出してはならない」と約束を交わしていたそうです。
福澤が演説にこだわっていた一つに、国会開設との関連があったと言われています。
つまり、国会が出来ても日本に演説の習慣がないため、意見書をかわすだけになってします。これは筆談にすぎない。
口頭で意見を伝えることが出来なければ、議会政治が成立しないばかりか、公平な裁判をすることすら難しいと考えていました。
そしてもう一つは、これから日本が近代国家に向かっていく中で、私たちの日常生活において必要になるものだと考えていたのです。
そして、三田演説館が出来て2年ほど経った、1877(明治10)年ごろには、自由民権運動の高まりによって、東京市中ではさまざまな演説活動が活発に行われました。
明治の演説の様子
自由民権運動:明治政府が意図する絶対主義的天皇制国家に対し、民主主義的な立憲制国家を作ろうとした運動のことです。
1874(明治7)年板垣退助らによる民選議院設立要求に始まり、国会期成同盟を中心に全国的に広まりました。
つまり、演説ブームが起こったのです。
特に著名な演説会では、300人から1000人ほどの聴衆が集まり、演説家を相撲番付に見立てた表が掲載され、当時の流行ぶりが伺えます。
東京演説社会人名一覧
1878(明治11)年頃には、政府が規制に乗り出すほど盛んになっていました。
三田演説会で行われていた、演説方法は、『会議弁』のマニュアルに沿って民主的に会議を進める方法で、もっぱら英米の会議法や討論法でした。
しかし、その後の政治演説ブームは、朗読法を演説法に取り違えた、身振りや発生法に重きを置いた形に変化して行ったようです。
「演説の時代」において三田演説会が大きな役割を果たしていたことがわかるのは、有名演説家の多くに慶應義塾出身者がいたことです。
その中には、尾崎行雄、犬養毅、井上角五郎がおり、演説館で鍛えられた論戦は大変注目を浴びるものでした。
そして福澤が没した後も耐えることはありませんでした。
尾崎行雄:政治家。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれます。
犬養毅:政治家。総裁、大臣を務め第29第内閣総理大臣に就任するも五・一五事件にて暗殺されます。「話せばわかる」の文句も有名です。
井上角五郎:北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者で政治家、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任しました。
それでは、『演説』発祥の場所、そして福澤の精神が時を超えて受け継がれている建物をご紹介していきましょう。
外観:正面
演説館は約10m×19mの長方形で木造2階建て、中央正面に入口があります。
建物入口まで、緩やかな階段があり、少し小高い場所にありますが、それは移築によるものです。
建設当初は旧図書館と塾監局の間にありましたが、1924年に現在の三田キャンパス南西の稲荷山に移築されました。
関東大震災後のことです。
さらに1947(昭和22)年5月には修復がほどこされています。
正面入口は中央に玄関ポーチが突き出した形で、切妻屋根となっています。
玄関ポーチの四隅には白い細い柱があり、そこには菱組(菱形に組んだもの)の欄間が付けられています。
扉は木造の両開き扉で、扉の上にはアーチ型のガラスがはめ込まれています。
そのガラスの表側には、中心から放射線状に伸びる桟が印象的です。
その他には、南側側面と、北側側面にも出入り口がありますが、いづれも片開き扉となっています。
正面玄関
側面出入り口
この三田演説館の設計は、当時ニューヨーク駐在の副領事だった富田鉄之助(のちに日銀総裁を務めます)が、米国の会堂の資料を送り、それを参考にして建てられたものです。
しかし、面白いことに和洋折衷の建物で、外壁のなまこ壁がとても印象的です。
和洋折衷は疑洋風建築ともいい、以前取り上げました「盛美館」にて、
日本建築との関わりについて少し触れています。
ご参考になさって下さい。
なまこ壁が建物の外壁をぐるりと覆っていて、屋根は寄棟造りで、桟瓦葺きです。
屋根の棟の両端には、鬼瓦が付けられています。
玄関上のシンプルな鬼瓦
向かって正面の2階には、上げ下げ窓が2つあり、窓の額縁の部分は白漆喰で囲っているため、なまこ壁の菱形から浮き出た印象を持ちます。
なまこ壁と2階上げ下げ窓
この建物の大きな特徴である「なまこ壁」は土蔵などの壁塗りの様式の一つです。
壁面に平瓦を、45°の傾斜になるように張り、瓦により斜め格子などの模様を造ります。
目地(めじ)と呼ばれる、瓦と瓦の繋ぎ目に白漆喰をかまぼこ型に高く盛り上げて塗るもので、その漆喰の形が「なまこ」に似ているところから、「なまこ壁」と呼ばれるようになりました。
なまこ壁のある街並みとしては、下記の地域などが有名です。
岡山県倉敷市(倉敷美観地区)
山口県萩市(菊谷横丁)
なまこ壁の工法は、江戸中期に風雨から壁を守るほか、火災の延焼を防ぐ役割もありました。
洋風建築においても、その機能性と低コストで工期が短くて済むことから、取り入れられました。
しかし、なまこ壁の洋風建築で現存しているものは非常に少なく、とても貴重と言えます。
岩科学校:1880(明治13)年竣工
宮崎神宮微古館:1908(明治41)年竣工
入口をはいると、小さな玄関ホールがあり、建物両側の2階へ上る階段があります。
正面は、開けた長いホール(会堂)になっていて、奥の中央は演説者のための舞台があり、その舞台に上がるために左右に小階段が4段ほどあります。
また、舞台の壁面は湾曲していて、舞台を囲ってあり、必然的に演説者に目が向くように設計されています。
この湾曲した壁面の右側には舞台裏へと続く戸があります。
舞台裏には、演者の控室や道具の物置として利用されていました。
中央奥の舞台と演台
2階建てですが、2階と言っても中央の聴衆席は吹き抜けの天井になっており、ホールの左右と後方の壁面が、まるでバルコニーであるかのような2階になっています。
これを通称ギャラリーといい、2階からも1階での演説を鑑賞出来るようになっています。
歌舞伎の劇場などでいう、天井桟敷にあたる感じでしょうか。
現在では、1階も2階も椅子が設置されていますが、当時は立ち見席で、2階は手摺にもたれかかりながら演説を聞いていたのではと想像が膨らみます。
突き当りに戸が設けられていて、舞台裏(2階)の控室に続いています。
2階と内部の様子:ギャラリー
ギャラリーとは、広間と通路を兼ねた細長い部屋ないし廊下のことで、柱列等により側面が開放され,建物の2階より上の外または内側に張り出して設けられる場合が多いもののことです。
ホール中央には正面入口から舞台に続くまっすぐな通路が設けられ、その左右に聴衆席の椅子が並べられています。
聴衆席には特に段差はありません。これは演説館と劇場との違いと、日本と海外の違いによるものかと思われます。
ホール左右側面には、大きめの窓があり、明るい日差しが降り注ぎ、緑の鮮やかさが美しく感じます。
窓の額縁は太目で白い漆喰が分厚く塗られています。
ホール(会堂)の様子
正面舞台の壁には福沢諭吉の腕を組んだ立像が懸けられています。
これは、神戸慶応倶楽部より寄贈されたものです。
旧大講堂にあった和田英作作画の肖像を、12年5月に松村菊麿が摸写したもので、神戸慶応倶楽部や大阪慶応倶楽部に掲げてあったものだそうです。
福沢諭吉の肖像画:松村菊麿模写(原画=和田英作筆)
1937(昭和12)年
また、舞台の上の演台の中央と、聴取者の木製の椅子の背には、ペンのマークが彫られています。
このペンのマークは、慶応義塾大学のシンボルマークです。
1885(明治18)年ごろ、塾生が教科書にあった一節「ペンは剣に勝る力あり」にヒントを得て帽章を自分たちで考案したことからはじまります。
その後多数の塾生・塾員の支持を得て公式な形として認められ、今日に至っているそうです。
実は、現在、三田演説館にある演台と椅子は建設当時のものではありません。
大正14年の演説館開館100年に際し、三田会(慶應義塾大学の同窓会の名称)から贈られた卒業50年記念品だそうです。
慶応義塾大学のシンボル
当時の三田演説館は立席で、400~500名だったと言われているそうです。
そのひしめき合う空間で、未来ある優秀な塾生が熱弁をし、聴衆はそれに熱い拍手を送る。
こんなことを想像するだけでも、義塾の精神と福澤の想いを感じ取れる価値のある建物です。
現在では、144席となっており、講演会等のごく限られた日のみしか内部は見学ができませんが、外観などは学生でなくとも自由に見学することが出来ます。
日本にとって分岐点となる歴史と物語のある演説館をぜひ一度ご覧頂けたらと思います。