京都に都を移し、平安京を開いてはや1200年以上が経過しましたが、平安時代から京都は水不足という問題が後を絶ちませんでした。
平安京
一方お隣の滋賀県には日本最大の湖、琵琶湖があります。
「琵琶湖から京都へ水を引く」という構想は、平清盛の時代からずっとあったそうです。
しかし、この構想は、明治になって京都を工業化しなければならないという緊迫感、近代的な土木技術の発展によって初めて日の目を見ることになりました。
琵琶湖
現在、京都市で使われる生活用水のほとんどは琵琶湖の水です。
ちなみに現代では、関西圏の人が滋賀県をバカにすると、滋賀県民が吐く有名な捨て台詞があります。
「琵琶湖の水止めたろか」です。
それほど、琵琶湖は関西地方での生活に欠かせない重要な要素を持っています。
この琵琶湖の水が使えるのは、明治時代、大正時代にこの琵琶湖の水を引く計画を完了させたからにほかなりません。
時代背景としては、1864年の禁門の変によって京都の大半が焼け落ち、また、明治維新と東京遷都によって人口の減少があったころの京都の話です。
禁門の変とはいわゆる「京都大火」のことです。
禁門の変
その時代の京都府知事、北垣国道が琵琶湖から水を引く計画を実行に移すことになりました。
北垣国道
彼は江戸時代末期、1836(天保7)年に兵庫県養父市で生まれ、幕末には維新志士、明治時代には官僚を経験し、政治家になりました。
高知県令、徳島県令に就任し、その後第三代京都府知事に就任しました。
京都の後は北海道庁長官を務め、勅選の貴族院議員に任命され、枢密顧問官までもを務めた人物です。
もし、この計画が遂行されていなければ、そこからさらに人口が減り、今現在の京都の姿はなかったのかもしれません。
こういったことから、今の京都の生活があるのは彼のおかげと言っても過言ではないほど、重要なことを行った人物です。
また、北海道庁長官時代には、防波堤や灯台の設置、埋め立てによる埠頭の設置などを行い、北海道のインフラ整備にも尽力した人物でもあります。
さて、滋賀県に行ったことがない方は、琵琶湖と京都がどのような位置関係にあるかということが想像できないかもしれませんが、実際、とても近くにあります。
Googl earthより
例えば、京都駅からJRで滋賀県の大津京駅に向かう場合、京都を出発し、山科駅を通過したら、すぐに大津京駅または大津駅です。
つまり、琵琶湖の水を引くには、山科の山を掘削できれば可能であるということです。
さらに言えば、京都市は盆地なので、それよりも高い位置にある山科に水を引きさえすれば、あとはその水を下らせるだけだったわけです。
そのため、平安時代から、このような構想があったわけですが、残念ながらそれに見合うだけの土木技術がありませんでした。
そしてこの「疎水」計画を実行したのは、田辺朔郎という人物です。
田辺朔郎
彼は、幕臣の長男として東京市の根津愛染町に生まれました。
しかし、たった生後9か月で父親が病死し、家督を継ぐことになりました。
その後、叔父の田辺太一が後見人となり、幼いころから漢学や洋学を学んでいます。
沼津兵学校一等教授に着任した太一に伴って1869(明治2)年に沼津に同行し、翌年同兵学校付属小学校に入学しましたが、1871(明治4)年に太一が外務省に出仕となったため、それに伴い朔郎一家も湯島天神町に転居し、近くにあった南部藩で英語・数学・漢学を学びました。
叔父の太一は岩倉使節団の一等書記官としても活躍しており、1873(明治6)年に太一が帰国した際に、朔郎は横浜港へ迎えに行きました。
岩倉具視
そこで、外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジンを見る機会があったのですが、そのころから工学に興味をもち、科学者を志して1875(明治8)年に工学寮付属小学校へ転校しました。
ゴールデンエイジ号
1877(明治10)年に工部大学校に進み土木工学を専攻しました。
彼は工部大学在学中に、上述した京都府知事の北垣国道が、遷都で疲弊した京都の活性化のために、琵琶湖疎水工事を天皇下賜金で断行することを知りました。
そのころから琵琶湖疎水工事に大変な興味を持ち始めました。
そして1881(明治14)年に卒業研究として京都へ調査旅行に赴き、卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させました。
琵琶湖疎水工事の計画
この卒業論文は大変優秀で、海外雑誌にも掲載され、イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を授与されました。
こういった背景から、工科大学校学長の推薦により、1883(明治16)年に卒業と同時に京都府の御用係に採用され、弱冠21歳にして、大工事である琵琶湖疎水の担当となりました。
この若者が今の京都で使われる生活用水の礎を築いたということです。
さて、ここからは、琵琶湖疎水の大工事やそれに伴う建築物に焦点を当てましょう。
まず、琵琶湖から水を引く経路を簡単に説明すると、大津の三井寺近くから水を引き、長等山にトンネルを作り、そこから京都の山科に出します。
そこから、日の岡を掘削し、さらに蹴上に出てきます。
この蹴上に水が流れた時点で、疎水は二筋に分かれます。
琵琶湖疎水図 1
琵琶湖疎水図 2
本流はそのまま西に向かい、岡崎を経て鴨川に着きます。
一方、分流は北へ向きを変え、水路閣によって南禅寺境内を超えて、東山に沿って北上します。
そしてそのまま京都市のかなり北に位置する松ヶ崎まで達したら、最後に堀川に流れ込みます。
京都市は、平安時代から鴨川と堀川を中心に街づくりが行われているので、この2つの川を潤すことが極めて重要だったということです。
また、京都に行ったことがある方ならわかりやすいのですが、京都駅からずっと北に向かっていくと、ゆるやかな上り坂になっていることがわかります。
高低差は京都駅と北山間で100メートルほどになります。
つまり、京都タワーの頂点と、北山の高さがちょうどおなじくらいということになります。
京都タワー
と考えると、東山からどうやって北の松ヶ崎まで水を運んだのか、という疑問がありますが、これを解決するために利用されたのが、「蹴上」という土地です。
蹴上の上り坂
蹴上とは「蹴上がる」という言葉から付いた土地の名前で、その名の通り、かなり急な坂道の土地になっています。
この蹴上の高さを利用し、松ヶ崎まで少しずつ高さを調整することで、水を北に運ぶことに成功しています。
この工事は1885(明治18)年6月に開始され、6年程度を費やし、1891(明治24)年4月に完成しています。
1894(明治27)年には、疎水本流を伏見まで延長する鴨川運河が開削されています。
疎水の工事自体は、土木事業に属するものですが、疎水に関連する施設にはその時代の建築と変わらないデザインが施されており、しかも、工事開始当時には構想になかった、蹴上発電所や、京都市疎水事務所など、疎水に付随する新しい建築物も生み出されています。
蹴上発電所
疎水事務所
さらに、1912(明治45)年には、疎水と並行して流れる第二疎水が作られました。
この第二疎水では、第一疎水以上に多くの施設が建設されています。
蹴上浄水場、御所水道、蹴上第二発電所、夷川発電所、伏見発電所、姉小路変電所などが新設されました。
蹴上浄水場
御所水道
夷川発電所
こうした疎水関連の建築物は当初の構想をはるかに超え、人々の生活にとって必要なものが随時建設されていきました。
また、その中でも疎水の水路閣自体がとても美しい建築物となっています。
疎水水路閣
水路閣橋下
上述した通り、疎水は日の岡の第三トンネルを出たところで、西へ向かう本流と、北上する分流に分けられます。
分流はすぐに南禅寺の境内を横断するのですが、そこに架けられているのが、全長92メートルの水道橋、水路閣です。
南禅寺
半円アーチを連ね、スパンドレル(アーチの円弧にはさまれた扇形の部分)には三角形の浮彫を施し、水路部分の外壁にも細かな半円アーチを装飾的に連続させ、1000年以上続いた日本の古都の中に、とてつもなく異国的な雰囲気が漂う美しい水道橋が完成しました。
しかし、実は建築当初、あまりの異国風な水道橋のため、京都の景観を損なうものとして非難を浴びたこともありました。
ですが、現在の土木建築物に比べれば、はるかにスケールは小ぶりで、かつ分節も細かいということが言えます。
分節を細かくすることで、高さを出さずに済んでいるということです。
京都では景観条例で30メートル程度までの高さの建築物しか造ることが許されないのですが、そういった現代の建築物に比べても、この水路閣は最も高いところでも10メートルほどしかなく、土地の起伏や木立によく溶け込んでいます。
また、この水路閣が今も美しく残っている最大のポイントは、「煉瓦造り」であるということです。
煉瓦という材料の質感の柔らかさや色調の優しさが周辺の土地のよく調和しています。
100年以上の時が経って、色が褪せたりしているのも、時代の流れを感じることが容易といった意味でかなり重要です。
もしこの水路閣が煉瓦造りではなく、コンクリートであれば、当時も、今も、絶望的な景観を作り出したのではないかと思います。
周囲の景色に馴染む水路閣
このように、琵琶湖疎水計画とは、はるか昔の平安時代から構想が続けられ、明治時代になってようやく日の目を見た、おそらく国内では計画自体に最長期間を要した土木計画の結晶です。
そして、この計画の実行に関わった二人の人物が今の京都市の人々の生活を守り、
今日までに京都が世界でもトップレベルの観光都市になり得た理由の一つです。
疎水トンネル
北白川に流れる疎水
琵琶湖疎水に関連する建築物は多くありますが、その中でも、疎水の水路閣だけは生で見てみることをおススメします。
京都の中にありながら、まるで外国に来たかのような感覚に陥りますよ。