日本のすばらしい建築物

日本に現存するすばらしい建築物を紹介するブログ

右近権左衛門邸(北前船主の館)

こんにちは、ニュースレター作成代行センターの木曽です。

 

前には日本海、後ろには山、そして海と山のあいだのわずかな平地に、大型の民家が並び、その山の中腹に迫り出すように洋館が立っています。

 

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民家を本邸とするならば、洋館は「離れ」といった具合でしょうか。


この少し奇妙でアンバランスな建物は、1901(明治34)年11代右近権左衛門の本邸として建てられました。

 

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この右近権左衛門という名は、右近家の当主が代々受け継いでいる名ですが、11代右近権左衛門をご存知の方もいらっしゃるかも知れません。


9代・10代・11代といったこの世代が、右近家が繁栄したピークと言えます。

 

右近家は今までご紹介してきた洋館の施主とは、少し違います。


侯爵や貴族でもなければ、有名な文化人でもなく、宣教師といった外国人でもありません。


江戸時代前期に船1隻からスタートした、小さな北前船の船主が右近家の始まりでした。


そして、幕末から明治時代にかけて日本海にその名をとどろかせるようになるのです。

 

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右近家の前には復元された船の展示があります


まず、この右近家の歴史を、最初にご紹介したいと思います。

 

皆様は、北前船(きたまえせん)のことをご存知ですか?


耳にしたことはあったとしても、詳しくは知ない方という方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

江戸時代には日本海や北海道の港から江戸や大阪へ、米や魚などが船で運ばれていました。


船は瀬戸内海を通って大阪、江戸へ向かう西廻り航路か、津軽海峡を通り江戸へ向かう東廻り航路を利用しました。


その西廻り航路を走る船を北前船と呼ぶようなったとのこと。


なぜ北前船と呼ぶのかについては、北廻り船がなまったという説と、北前とは日本海の意味で日本海を走る船だからという説など、いくつかあるようです。


また、当時は「弁才船」と呼ばれる船が貨物船として広く使われていました。

 

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弁才船模型(八幡丸1357石積)

 

 船には責任者の「船頭」、航海士の「表」、商品売買の会計責任者の「知工」、水夫長の「親父」のほかに「若衆」や「炊」など10人余りが乗り組んでいました。

 

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北前船の代表的な積荷:昆布とニシン

 

右近家は、先に述べたとおり、最初は1隻の船から、近江商人の「荷所船」として松前蝦夷地と敦賀・小浜等を結ぶ日本海を往復していました。


当時の北前船はバクチのようで、うまく航海が出来れば大もうけし、海が荒れて船が沈めば人も物資もすべてが海底に消えていました。


このままでは、経営は不安定で仕方ありません。

 

もちろん右近家も始めのころは、すべてが順調とはいきませんでした。

 

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北前船での航海の図・・・荒波により命がけでした

 

そうした中、9代右近権左衛門はうまく経営の方向を変化させていきます。


18世紀も半ばを過ぎ、宝暦から天明期のあたりには近江商人の「荷所船」として活動するかたわら、貨物を積み地で商品として買い入れ、揚げ地で商品として売りさばいて利益を獲得する、いわゆる『買積み商い』も行うようになりました。


つまり商業と海上運送業の二つを兼ねる『海商』です。

 

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 右近家より:勘定帳

 

この9代右近権左衛門は若い頃から廻船である小新造や八幡丸に船頭として乗り込み、全国各地の情報を収集するとともに廻船経営のノウハウを身をもって体験しました。


この経験から商機を見逃さず、幕末から明治前期にかけての北前船の最盛期を生き抜き、右近権左衛門家を日本海沿岸有数の北前船主に仕立て上げることになったのです。


このおかげで、8代当主の時代の所有廻船は3隻、利益が約1,600両だったのに対して、この9代当主ではその10年後(1863年)には廻船数11隻、利益は12,000両余に達しています。


右近家の廻船数は飛躍的に増加していきますが、それとともに、廻船の規模も大型化し、その収益も莫大なものとなって行きました。

 

その大きな理由は、船頭のほとんどは弟や息子など身内の者で固めていたこと。


そして、若い頃、自ら船頭として経験を積んだ9代目権左衛門が、その船頭たちに航海の知識や技術を伝授していたことです。


北海の荒海を乗り切る航海技術者集団を抱えている右近家が、大船主の道を歩んでいったことは容易に想像が付きます。


そんな、右近家の絶頂期を過ぎて跡を継ぐことになったのが、10代目当主です。


父9代目権左衛門同様、右近家の廻船に船頭として乗り込み、商才を磨きました。


しかし、彼が生きた明治時代は、北前船が徐々にかげりを見せていく時代です。


隆盛を極めた北前船は、明治の半ばを過ぎると、衰退の一途をたどっていきます。

 

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 明治:文明開化

 

文明開化により、蒸気船が三菱や日本郵船といった大資本の手によって日本海沿岸にも運航されるようになったのです。


その対策として、明治20年代半ばには、所有していた廻船を、西洋型帆船や蒸気船に切り替え、大量の商品を運びその運賃を稼ぐ経営に転換し、名実ともに近代船主に脱皮しています。

 

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伏木港にて、北前船等の蒸気船と帆船が混在している様子:1924(大正13)年

 

そうして、右近家は、江戸期から明治期にかけて日本海の海運業をけん引した、北陸五大船主の一つに数えられるようになったのです。

 

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船の後尾に掲げていた旗

 

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右近家の家紋:茶の実

 

こうした日本海勢力対中央勢力との争いは、同時進行で海上保険にも及びます。


父9代当主の時代に中央勢力の東京海上、帝国海上、日本陸運の各保険会社に対抗するため、日本海上保険株式会社を設立しました。


しかし、寄せ集めの弱さで人も資本もばらばらになりましたが、10代当主が社長のポストに就き、建て直しに成功。


この成功により、右近家は家業の軸足を海運から海上保険に移しました。


そして、海運業の同業者全体の保護育成に努めました。

 

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日本海上火災保険・横浜支店:1984年2月撮影

1922(大正11)年竣工:建設当時は3階建ての石づくりのビルでした。

 

 11代当主こと、右近義太郎は1889(明治22)年11月生まれで、1916(大正5)年2月に11代右近権左衛門を襲名しました。


大正3年に慶応義塾大学理財科を卒業し、先代権左衛門の後継として日本海上保険株式会社の社長となりました。


昭和19年日本海上と日本火災が合併し、日本火災海上保険が創立されて同社会長となり20年12月まで在任しています。


また、画人と親交があり、お茶を嗜み、写真を好むなどの文化的な生涯を送ったとされ、1966(昭和41)年に生涯を終えました。

 

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現在:日本興亜馬車道ビル

1989(平成元年)年竣工:新しい建築は、馬車道全体の景観を守るため、新しい建築の3階分は元通りの外観を復元しています。

 

現在は、合併により、日本興亜損害保険株式会社となり、2014年より損害保険ジャパン日本興亜となっています。

 

それでは、11代当主は、なぜ日本海から急に立ち上がった斜面に、洋館を建てたのでしょうか。

 

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道路側から見た洋館

 

実は、「お助け普請」でした。

 

経済不況の折、地元村民の仕事を作り出すために、大きな建物を建設し、その人夫として村人を雇用しました。


「お助け普請」は近江商人の知恵と言われています。

 


つい、無駄な公共工事を思い浮かべてしまいますが、地域の経済活性のためにあえて本家の建築や改装工事を発注することで、商人が儲けた利益をその土地に還元しているのです。


また、不況時なので建築費用も比較的安く出来るメリットもあるのが、さすが商人の知恵とも言えるでしょう。

 

他にも近江商人の知恵と言われているものをいくつかご紹介しましょう。


「三方よし」・・・「売手よし、買手よし」は当然のことといえますが、近江商人には、このうえに「世間よし」が加わって「三方よし」となります。


「利真於勤」・・・利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方で、営利至上主義をいさめました。


「始末してきばる」・・・無駄にせず倹約することを表し、単なるケチではなくたとえ高くつくものであっても本当に良いものであれば長く使い、長期的視点で物事を考えて、仕事に励むこと。


「陰徳善事」・・・人知れず善い行いをし、自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。

 

「乗合商合(のりあいあきない)・組合商合 (くみあいあきない)」・・・個人企業形態でなく、合資制度による企業体形成で、少ない自己資金で事業が拡大でき、危険分散を図りました。

「行商」・・・各地を歩くことで、その土地の物産や特産あるいは必要としている商品情 報などを積極的に収集していきました。

 

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近江商人:天秤棒を担いで全国を行商していました。

 

近江商人の流れを汲むとされる主な企業


高島屋

トヨタ自動車

伊藤忠商事・丸紅

住友財閥

西武グループ

ワコール

白木屋

ニチレイ


など、他にも有名企業が多数あります。

 

そんな「お助け普請」で建てられた洋館ですが、とても印象に残る手の込んだ洋館です。


はっきりとした設計者は不明で、洋館部分は1935(昭和10)年に竣工されました。


その暗い土間を抜けて中庭を一つ通過すると、庭園に出ます。

 

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洋風の庭園

 

そこを過ぎたら、いよいよ、山の斜面を折れ曲がりながら洋館まで登っていきます。


手摺や照明塔に使われているコンクリート製の擬木は、昭和初期のものかと思われます。

 

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綺麗に整備された石造りの階段

 

石組みや、山草花の様子が、散歩にはもってこいで、しっかりとした階段となっていて、立体庭園といったところです。


山道をしばらく登ると視界が開け、洋館が現れます。

 

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外観

 

外観を見あげると、不思議な感覚を持ちます。

 

緩やかな傾斜の切妻の屋根、校倉造りの壁、角材を突き出した様子は、スイスのシャレー造り風(山小屋風)です。


しかし、このシャレー風になっているのは2階だけで、1階はクリーム色のスタッコ仕上げが印象的なスパニッシュ様式になってるのです。

 

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外観:1階(スパニッシュ風)

 

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外観:2階(シャレー風)

 

つまり、1階はスパニッシュ風で2階はシャレー風。

 

なんとも面白い造りです。


この二つを上下に重ねるといった発想は、どこから生まれたのでしょうか。


この洋館が作られたころは、右近家は実質的には芦屋に本拠を移していたため、夏の別荘としての利用が多かったそうです。

 

冬の日本海は厳しいものですが、夏の日本海は穏やかで青く爽やかな海です。


日本海を地中海に見立てて、スパニッシュ風にすることでリゾートのような気分を味わいたかったのではないかと想像が出来ます。

 

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夏の海の様子

 

一方、2階と屋根をシャレー風にしたのは、海上からの見映えを考えたからではないでしょうか。


下から見ると、門前や海岸側からは一階は樹木に隠れ、主に目につくのは2階と屋根のみ。


急斜面をバックにすると、切妻の大きな屋根も、張り出すベランダも、部材が太いことも、本当によく目に付き、遠くからの建物自身の眺めにあわせたと考えれば納得がゆきます。

 

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赤茶の大きな屋根が印象的です

 

内装ですが、インテリアも1階はスパニッシュがベースになっています。

 

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1階:玄関

 

玄関から廊下にかけて、長方形のタイルを風車形に組んだ中央に赤と黒と緑の正方形のタイルがはめ込まれ、全体で籠目模様になっています。

 

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1階:玄関の床のタイル

 

1階は、居間兼食堂や主寝室があります。

 

実は台所はありません。

 

本邸から食事を持って上がる予定だったためです。


しかし、西洋館が完成した年にひと夏過ごして以来、食事を持ち上げるのが大変なため、次の夏からやめてしまったそうです。

 

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1階:客間

 

そしてなんと言っても1階の見所は暖炉まわりです。


ストーブの隣に、ベンチをしつらえたイングルヌックと呼ばれる空間があり、うっすらと布目が浮き出た褐色のタイルの間に3種類の模様のタイルが散らされています。


スパニッシュはイスラム建築影響を受けているため、このようなタイルを好んで使用するのが特徴です。

 

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1階:イングルヌック

 

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イングルヌックのベンチと床のタイル

 

洋館の階段部分には、これまたスパニッシュの特徴である2連のアーチがあり、階段のステンドグラスには右近家の旗を掲げる南蛮船が描かれています。

 

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階段:2連アーチが印象的です

 

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階段:ステンドグラス(船の帆には家紋の茶の実が描かれています)

 

2階はシンプルな和室とお客様用の寝室があり、またベランダからは日本海がよく見えます。

 

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2階:和室

 

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2階:ベランダ

 

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2階:ベランダから海の様子

 

現在、この建物は「北前船主の館・右近家」として一般公開されていますが、夏だけは非公開になります。


それは、今でも一族がひと夏を過ごすためだそうです。


この建物の主の歴史を知ると、海に生きた右近家のロマンを感じることが出来ます。

 

青い海と、爽やかな海風を感じながら、今でも愛され続けるこの洋館に足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

本邸では、先に述べたような北前船の歴史に、様々な展示物を通して深く触れることができますよ。